ババン時評 今や「発言切取り攻撃」時代

老練政治家の #小沢一郎 氏が、親子ほど年の違う立民党の #泉健太代表 に説教された格好になった。小沢氏が先の参院選での街頭演説で、安倍前首相殺傷事件は「自民党の長期政権が招いた事件」だと言ったことに対して、泉氏が「事件と長期政権を不用意に関連づけるべきではない。党として注意した」と自身のツイッターで明かしたことから小沢氏への世間の風当たりが強まった。

先に「ババン時評 温和政治家 藤井裕久氏逝く」(7・15)で、藤井氏が10歳も年下の小沢氏を、畏敬の念をもって「おやじさん」と呼んでいた話を書いたが、今回の泉氏は逆パターンである。演説後に小沢氏は、「安陪さん個人を批判しているわけではない」と記者らに語り、その後、自身のツイッターで「安倍元首相は、父君、安倍慎太郎先生以来の関係で、親しくさせて頂いた」と釈明して追悼したが、遅かった。

そしてこの“街頭発言”は、小沢氏の秘書だった候補者の応援演説中のことである。小沢氏の発言は、安倍氏襲撃の一報に接して、自民党を叩こうと突発的に出た発言だ。したがってこの時ばかりは、いつも冷徹な小沢氏が、持ち前の「脳内論理回路」を通さずに発した“過激発言”だったと言えよう。そう考えれば、今回の小沢発言に一片の同情の余地もない、ということでもなさそうだ。

政治家の舌禍事件では、近くは #森喜朗氏 の例がある。前にも書いたことだが、森氏がオリ・パラ会長の座を追われることになった原因は、「女性の入った委員会は長くなる」と言ったことだった。その問題での記者会見で、若い記者が、男女差別的な発言を(したことを)どう考えるかと質問して森氏に謝罪させた後で、そのような人が会長の座にあることをどう考えるかと“意地悪質問”をした。森氏がムカッと反応したのは当然だ。私は、これに『近時、舌禍事件の多さと共に、これを責める「正義漢ヅラ」の横行も目立つ』と書いた。

さらに森氏には、総理大臣だった2000年の「神の国発言」がある。それは、神道政治連盟国会議員懇談会の祝賀会で、「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知をして頂く」と言った“舌禍事件”である。しかしこれは仲間内の怪気炎?でもあり、「笑ってやろう」というゆとりがあってもいいのではないだろうか。蛇足だが、神道政治連盟神社本庁の関係団体で、300名近い衆参議員が参加しているという。今問題になっている元統一教会とは異質・別格の団体ではあろうが? 会員諸氏の、票欲しさの下心では通底しているのかも―。

3年ほど前に自民党が作った「失言防止マニュアル」は、マスコミなどには問題発言箇所だけ「切り取られる」から気を付けろと議員先生方に教える情けないマニュアルだが、たしかにマスコミやネットでは、問題発言箇所だけを切り取って攻撃することが多い。今やひとを許すゆとりのないエセ正義の「発言切取り攻撃」時代になったのではないか、との懸念も強い。(2022・8・28 山崎義雄)

ババン時評 ウクライナ侵攻をどうみるか

表題に借りた「ウクライナ侵攻をどうみるか」は、フランスの地政学者・ピエール・コネサ氏(73)の新聞論考(読売新聞 7・31)の見出しである。読んだ人も多いだろうが、この論稿は、特に、ソ連崩壊後における世界情勢の変遷を明快に論じていて説得力がある。ただし、論稿の最後に提言するウクライナ危機の拡大をどう回避すべきかについての提言は、氏の冷徹な歴史眼がやや甘くなっているのではないか、実現性において論議を呼ぶのではないだろうか、などといった疑問がわいてくる。

まず氏は、ウクライナ危機の起点は1991年のソ連崩壊だとする。ソ連時代の「行政区画」は国境に変わり15の国が独立した。多民族国家ソ連においてはロシア人が支配者だったが、崩壊後は、ロシア以外の14カ国におけるロシア人は民族的少数派になり、支配される側に回ることになった。それがウクライナであり、プーチン氏が、ロシアに接するウクライナ東部ドンバス地方の「ロシア人」の開放を掲げて侵攻を始めたきっかけだというのである。この説明で旧ソ連邦の地政が鮮明になる。

米国はウクライナ危機を巡り民主主義と権威主義の相克の構図を描いているが、インド、インドネシア南アフリカ、チリなど多くの民主国家は対露制裁に加わらず、距離を置いている。今回のウクライナ危機が浮き彫りにしたのは、かつての湾岸戦争で米欧に追随したような「国際社会」が消え、今や米欧日の「西側」は「国際社会」の広がりを持たなくなっていることだという。要するに21世紀に入り、米国は中国の台頭やロシアの復活を前に、総体的に威力を落としているのである。そして、単純な「民主主義と権威主義の相克の構図」はもはや通用しない時代だということだろう。

さらに氏は、今の世界を米中二極構造ではなく、多極構造と見る。実際、欧州などで地域主義諸国が力をつけてきている。そこで氏は、「空論に聞こえるかもしれないが」と前置きして、「危機は戦争に至る前に地域の諸国が連携して解決すべきである。ウクライナ侵略戦争は起きてしまった。欧州は危機の拡大を避けるためにも、地域大国ロシアを包摂し、その主張に耳を傾けて、和平を目指すべきだ。それ以外に道はないと私は考える」と提言する。

地域諸国とはNATO諸国であり、ベラルーシや紛争当事者のウクライナなど旧ソ連の属国や、中立国のスイス、スウェーデンなどであろうが、それらの国々が「ソ連包摂」を目指して一致できるだろうか。それらの国々が、ロシアを抱え込んで「その主張に耳を傾ける」ことができるだろうか。そしてプーチンの主張に理解を示すことができるのだろうか。

今その方向で努力している国にトルコがあるが、トルコにはNATOに身を置きながらそこに収まらず自国の利を考えているフシがあり、ピエール・コネサ氏の理想とは異質な意図を抱えて動いているように見える。トルコ的な国が増えれば地域諸国の地政はますます複雑になるのではないか。限りなく疑問が浮かぶ。できればコネサ氏にはもう一歩踏み込んで疑問に答えていただき、説得力のあるウクライナ危機の拡大回避策を説いてもらいたいものである。(2022・8・22 山崎義雄)

ババン時評 「専守防衛」の看板を下ろせ

ウクライナの厳しい戦いを見るにつけ、「専守防衛」の看板を掲げる日本の防衛姿勢の甘さが思いやられる。防衛白書によれば、 #専守防衛 とは「武力攻撃を受けた時に初めて防衛力を行使し、その態様も自衛のための必要最小限にとどめ、保持する防衛力も自衛のための必要最小限のものに限るなど、憲法の精神にのっとった受動的な防衛戦略」であると定義される。

これは1955年に杉原荒太防衛長官(当時)が国会答弁で初めて使った言葉だという。さらに、1972年には時の総理大臣・田中角栄が、「専守防御は、相手の基地を攻撃することなく、もっぱらわが国土及びその周辺において防衛を行なうということであり、わが国防衛の基本的な方針である」と国会答弁している。

こんなことを未だに防衛白書に掲げていること自体驚きである。わが国に対する中ソ、北朝鮮の脅威が現実に増しているというのに、わが国の防衛力は相手の攻撃を受けてから行使し、その防衛力も必要最小限のものにしますと、敵はおろか国際社会に宣言しているのである。そして、現実の日本の防衛力整備は、そんな建前に縛られながら、現実の中ソ、北朝鮮の脅威にどう対応するかに苦慮してばかばかしくもがいているのである。

そんな自縄自縛の防衛論でもがきながら、中国は本格空母3隻を持ったのだからこのくらいはいいだろう?と海上自衛隊護衛艦「いずも」を空母に改修しようかとか、相手が極超音速ミサイルを持っているのだからこのくらいは持たなくてはと長距離巡航ミサイルを開発・導入しようかなどと言っているのである。北朝鮮はすでに低空を変則的な軌道で飛行し奇襲攻撃できる新型の短距離弾道ミサイルを持っているというのに、わが国のこの程度の“もがき”でも、共産党などは「専守防衛」を逸脱していると批判する。

今年4月の自民党による政府への「国家安全保障戦略」提言でも、残念ながら「専守防衛」定義はそのまま盛り込まれている。ただし「ここで言う必要最小限度の自衛力の具体的な限度は、その時の国際情勢や科学技術等の諸条件を考慮して決せられるものである」と付言している。そしてこの前項では、「弾道ミサイル攻撃を含むわが国への武力攻撃に対する反撃能力の保有」を提言している。

ここに言う「反撃能力」は、従来論議のタネとなってきた「敵基地攻撃能力」の巧妙な言い換えである。自民党の福田総務会長(当時)は「国際的にも誤解を与えないネーミングだと思う」と自賛した。この「敵基地攻撃能力」の考え方は、1956年の鳩山一郎首相の「座して自滅を待つべしというのが憲法の趣旨とは思えない」とした政府見解に始まるとされる。たしかにミサイルが撃ち込まれて国民の犠牲が出てから反撃するのでは手遅れである。本年中の防衛関連3法の見直しでは、古びた「専守防衛」の看板を下ろして時流に即した看板に書き換えるべきだ。(2022・8・16 山崎義雄)

ババン時評 夢は故郷の山野を駆け巡る

 テレビで、「なぜそこ?日本人!」と言う番組がある。最近、ある高齢男子が都会を離れて山深い故郷に帰り、一人暮らしをしている話が紹介された。関西の名門大学を出て、サラリーマン経験の後、学習塾経営で成功したのに、望郷の思い断ちがたく、塾を共同経営の妻に任せて一人故郷に戻った。故郷の山ふところに抱かれて“蘇生”し、彫った仏像をネットに出したら望外の値で売れたという。

 たまたまネットで  #石川啄木 についての古い新聞記事に出会った(2021‐08‐12 西日本新聞)。『石川啄木ほど望郷の念をたくさん詠んだ歌人は珍しい。岩手県 渋民村(現盛岡市)のふるさとを「石をもて追はるるごとく」出たものの、都会では「ふるさとの訛(なまり)なつかし」と停車場の人混みへ聴きに行く。「ふるさとの山に向かいて言ふことなし」「かにかくに渋民村は恋しかり」。漂泊の歌人の魂は故郷の山野を駆け巡ったことだろう―』。

 啄木には、「病のごと思郷のこころ沸く日なり目に青空の煙悲しも」の一首もある。「石をもて追はるるごとく」渋民村を「出でし悲しみ消ゆることなし」の思いを抱きながら、上京後は、上野駅に行って雑踏の中の懐かしい東北弁に耳を傾ける。「かにかくに」岩手山とその山裾の渋民村が恋しかったのである。貧困の中で代用教員や新聞記者などを勤めながらの26年の短い生涯だった。

 冒頭の、山深い故郷に帰った「にわか仏師」(失礼)も、知り合いや友人に会いたいのではなく、子供のころ、一人遊びの多かった山や川の「ふところ」が恋しかったようだ。その心は「帰心矢の如し」だったろうが、同時に、若いころは山野を跋渉した修行僧のように、歳とともに「ふるさとへ廻る六部は気の弱り」であったかもしれない。特に後期高齢者ともなると、故郷の大事な人、友人・知人が減っていく。変わらないのは山河だけである。これも、幸いにも山河を変容させる大災害に見舞われなければの話だが―。

 いきなりだが、私の作詞した歌に「ふるさとよ」がある。一番だけ披露すると、「おーいおい 東京の雲よ 高く流れて北の 北の故郷に行け そして思い出山の頂に ふわり漂え ふるさと離れて 生きて振り向けば 辛い時励まして 力をくれた山 山がある」―。レコードはあまり売れなかったが、日本音楽著作権協会による東日本大震災の復興支援プロジェクトにわずかな印税を提供する形で参加した。幸いこの歌は、同郷の岩手県沿岸部出身者らの集ういくつかの会などで歌われている。

 人それぞれではあるが、歳を重ねるにつれて、いや増すのが望郷の念である。同時にその一方で、  #室生犀星 の詩「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの よしやうらぶれて 異土の乞食(かたい)となるとても 帰るところにあるまじや」との思いで都会や「異土」に住む人もいるだろう。故郷へ帰るも帰らぬも、ふる里との縁が切れようが切れまいが、断ち切ることのできないのが望郷と郷愁の思いである。(2022・8・11 山崎義雄)

ババン時評 “無思想犯”の出没する社会

「安倍(元首相)は直接の敵ではない」と言いながらその命を奪うという理不尽で許しがたい暗殺事件から間もなく1カ月となる。先に、「ババン時評 安倍氏逝く 未熟な男の凶行」を書いた(7・9)。なにしろ犯行翌日の感想だから、犯人像の分析が甘かった。当然ながら、真実が分かってくれば、犯人の山上徹也なる男もそうそう単純な人間ではない。もしこの男が別の手段で世に訴えたら、この男の境遇と、悲観や苦悩も理解されたかもしれない。しかしこの男は最悪の手段を選んだ。

また、この男を「未熟な男」と表現したのには別の理由がある。それは、当初から学者やそのスジの専門家といわれる(一部の)人のご高見やマスコミの論調に抵抗感があったからだ。つまり、事件当初から(そしていまだに消えない)、そうした方々による、この犯行を「許しがたいテロ、卑劣な凶行、無法な言論封殺」などと断じる常套的で高踏的な見立てとそれに呼応するマスコミの論調である。

今でも当方には、この男は思想犯的な思考操作ができる人間ではない、簡単に言えば、大した代物ではない、との思いが強い。だから先にも、警視庁によるテロの定義を借りて犯人の所業はテロに当たらないとした。そのテロの定義とは、「広く恐怖又は不安を抱かせることによりその目的を達成することを意図して行われる政治上その他の主義主張に基づく暴力主義的破壊活動」である。そのような御大層な?意図をもってこの男が犯行に及んだとは考えられない。

政治家の小沢一郎氏は、この事件について、「大変残念で心からお悔やみ申し上げます」と安倍氏の死を悼んだ上ではあるが、「端的に言えば、自民党の長期政権が招いた事件と言わざるを得ない」と述べ、さらに「長い政権が日本の社会をゆがめ、格差が拡大し、国民の政治不信を招き、その中から過激な者が暗殺に走った」と述べて物議をかもした。しかしこれは小沢氏の政治的発言であり、今回の「過激な者」がそう考えて暗殺に走ったわけではない。

これはウィキペディア経由の孫引きだが、「日大教授の福田充は、この事件が起こったのが参院選の最中であることから、銃撃には安倍や自民党の政治姿勢に対する抗議の意図があったと分析できると指摘しつつ、民主主義という現代政治の根幹を破壊する行為(テロリズム)であり容認できないとも述べている」という。これも定型思考による勘違いだ。

今、事件を置き去りにして?過去にも問題になってきた怪しげな宗教団体・元統一教会と政界の癒着が世間の耳目を集めるに至った。結果論で言えば、今回の犯人は、先の、警視庁のテロ定義に相当程度当てはまるテロ犯にも見えてくる。もちろん犯人にその意図はなかったはずだからテロ犯とは言えまい。同時に、無法な言論封殺などとも無縁であり、「言論・表現の自由」への挑戦などという高邁な?思想や意識とは無関係の犯行である。このような“無思想犯”が出没する社会現象をどう捉えるべきか。それを真剣に考え、手立てを講じなければ安倍氏は浮かばれまい。(2022・8・3 山崎義雄)

ババン時評 共産党の言い分を聞こう?!

日本の政党のなかで、戦前・戦後を一つの名前で通している政党は日本共産党だけだという。その共産党が、結党100周年を迎えた。志位和夫委員長が、記者会見で、共産党の100年を貫く特質は、「不屈性、自己改革、国民との共同」だと話した。つまり、社会進歩の大義を貫いてきた不屈性。科学的社会主義を土台に進めてきた自己改革。そして、国民との共同で政治を変えるという姿勢である。

話を続ける前に、日経新聞(7・16)に、志位委員長の談話記事があり、記者の筆も加わって党の履歴がちりばめられている。まず、日本共産党は、世界革命を目指す旧ソ連共産党の指導を受けたコミンテルンの日本支部として誕生。戦後は武力革命路線を否定し、宮本顕治元議長の下で、61年に採択した党綱領で「資本主義の枠内での民主主義革命」などを明記。旧ソ連や中国の覇権主義と対峙する自主独立路線を敷いた。2004年に綱領を見直し、天皇制や自衛隊を当面容認。それでも党勢は低迷。党員数は90年のおよそ50万人をピークに、20年には27万人になった、と記す。

そして100周年記者会見で志位委員長は、党における「戦前の戦いは、日本国憲法に実った」とする。太平洋戦争に向かう時期に、他の党はすべて自らの党を解散して、侵略戦争を進める「大政翼賛会」に合流した。共産党は、多くの迫害を受けながら不屈の戦いを続け、『戦後の日本国憲法に、「政府の行為」によって戦争をひきおこしたことへの反省と、国民主権が明記された』と自負する。

今、問題の日米連携では、「覇権主義をきっぱり拒否する立場は、何よりも対米関係においてきわめて重要」だとして、対米「従属の根源―日米安保条約を国民多数の合意で解消し、対等・平等・友好の日米関係をつくることを日本改革の中心課題にすえている日本共産党の立場はいよいよ重要」だとする。

さらに、野党連携に関しては、「日本の政治を変える道は、共闘しかない」と言い、「これまでの7年間の共闘のとりくみをふまえ、この流れをどう発展させるかについて、市民と野党が胸襟を開いて話しあい、この運動の前途を開くことを心からよびかける」と言う。

ここでまた、先の日経記事に付帯して載っている一橋大教授・中北浩爾氏の意見を引用する。それは、大要「野党共闘を進めるなら2つの政策の見直しが必要だ。1つは、外交・安全保障。共産党日米安全保障条約の廃棄を掲げ、自衛隊の現状維持か解消を目指している。もう1つは、連合、特に民間労組は建設的な労使関係を重視する。この考え方を変えない限り共産党とは組めない」と言っている。

さて、今後の路線に関しては、「発達した資本主義国での社会変革は、社会主義共産主義への大道である」との立場で、21世紀を、搾取も抑圧もない共同社会への建設に向かう人類史的な前進の世紀とすることをめざして、力をつくす」と言う。躍進を期待したい。(2022・7・31 山崎義雄)

ババン時評 徴用工問題は厄介な置き土産

先ごろ行われた日韓外相会議(7月18日)では、最大の懸案である元徴用工問題で韓国側が「努力する」と表明したが、韓国・尹錫悦政権の支持率が低下する中で、前向きの政治判断を下して解決策を打ち出せるかどうかについては疑問視する声が強い。こうした効果の見通せない状況下で、今回、岸田首相は韓国・朴振外相との直接面談に応じた。これも、冷え切った日韓関係に配慮しての異例の決断であり、韓国という国は何かにつけて日本に気遣いをさせる国である。

報道によると、今回の日韓外相会議で朴氏は、元徴用工問題の解決に向かっては、韓国内の日本企業の資産売却以前に解決策を出したいとする一方で、日本側にも誠意ある対応を求めたと言われる。いま、韓国内では、政府主導で設立した官民協議会に、肝心の元徴用工側が、尹政権への不信を理由に不参加の立場を表明しているという。こうした韓国側の事情を踏まえて、朴氏が日本側に求める誠意ある対応というのは、日本政府の新たな謝罪と日本企業による賠償が必要だということである。これでは一歩も進まない。

できない相談であることを承知の上で言えば、慰安婦問題も徴用工問題も、1965年の日韓請求権協定に関係ないというならば、それらの問題を改めて交渉する前に、日韓協定に基づく計5億ドルに及ぶ日本から韓国への賠償金のうち、せめて「人への補償」関連の賠償金をそっくり日本に返済してからにするべきではないか。例えば、日本による韓国統治下における元韓国人の軍属や官吏などへの補償を、韓国提出の名簿等に基づいて個別に補償したいとする日本政府の提案を退けて、個人への補償は韓国政府が行う」として多額の現金を受け取りながら、個人にはほとんど支給しなかったという、あのカネである。

当時、問題視されていなかった慰安婦はともかく、徴用工は十分に補償の対象に入るべき人たちだった。それにもまして、日韓合意は、最終的・不可逆的に日韓の経済・補償問題を解決するものであったはずで、後年問題になった慰安婦問題も含めて、解決すべき責任は韓国側にある。さらに言えば、日本は、朝鮮半島に残した53億ドル分ともいわれる資産(相当部分を占領軍の米ソによって接収されたとはいうが)について、きれいに請求権を放棄している。

徴用工問題は前政権の厄介な置き土産である。このままでは尹政権における元徴用工問題の解決姿勢は、文在寅前政権となんら変わるところがない。朴外相は、9月の国連総会や11月のAPEC首脳会議などの機会を捉えて岸田首相と尹大統領との首脳会議を実現したいと語ったとも伝えられるが、前政権の対日姿勢と変わることのない状況では新たに尹大統領との首脳会議を急ぐ意味がない。今回の岸田首相と朴氏の面談以上に無意味な会談になるのではないか。ボールは韓国の手にある。韓国は、しっかりと内容のある一球を返すべきだろう。(2022・7・26 山崎義雄)