ババン時評 霊魂は存在するか

5月のある日、コロナ明けで4年ぶりぐらいに開かれた菩提寺のお施餓鬼に出席した。第1部は高僧の説話を聞き、第2部は読経を拝聴した。説話はあまり抹香臭くない現世に生きる知恵についての話が中心で、いかにも禅寺らしい。読経はコロナ以前のとおり他山の僧侶も招いて16~17名の僧侶による本堂を揺るがすような音吐朗々の「重奏」だ。地鳴りのするような読経は時に低音部が主導し、時に高音部が主導する。幅と厚みを持った読経の流れは重厚だ。

先にも書いたが、大学1,2年の頃、禅寺の朝粥を頂いて世話になったご縁がある。だが歳を取るとともに信心深くなったという自覚はなく、ことさらお経がありがたいと思っているわけでもない。したがって、今回のように読経のアンサンブルを聞いても、経文の言葉も意味もさっぱり分からないのだが、荘厳な本堂で、重厚な読経を聞くような場に身を置くことが歳を取るとともに心地よく思えるようになってくるようだ。この感覚は、歳とともに先に逝ったあの人この人が身近に感じられるようになることと無縁ではなさそうだ。

そして霊魂の存在などを考えるようにもなる。ウィキペディアを見ると、まず霊魂とは、「肉体とは別に精神的実体として存在するとされる概念」「肉体から離れたり、死後も存続することが可能と考えられる非物質的な存在」「感覚による認識を超えた永遠の存在と考えられている」とある。また、日本仏教では、基本的に「仏陀は『無我』を説いて霊魂を否定した」との考えを支持することが多いようで、宗派別のアンケートで「死後の霊魂を信じる」と答えた僧侶の割合は、日蓮宗80%、真言宗75%、浄土宗62%、曹洞宗52%、浄土真宗8%(典拠は鵜飼秀徳著『「霊魂」を探して』)だった。

南無阿弥陀仏と唱えるだけで浄土に往けると教える浄土真宗の坊さんたちが、死後の霊魂の存在をあまり信じないというところが面白い。次いで禅宗曹洞宗の坊さんの52%、すなわち半数以上の坊さんが霊魂を信じないというのは、霊魂を信じるトップの日蓮宗80%に比べて少ないのは何となくわかる。禅宗は宗教と言うより哲学に近いところがある。日本における曹洞宗の開祖・道元禅師による『正法眼蔵』は群を抜く難解さで知られる仏典である。

ついでに? 今話題の人工知能「チャットGPT」にも聞いてみた。GPT氏によると「宗教や哲学的な立場によって異なる見解があります。一部の宗教や信仰においては、霊魂が存在し、人間の死後に霊魂が別の次元や世界に移行すると信じられています。一方、科学的な立場からは、霊魂や魂が存在するという直接的な証拠はなく、その存在自体が検証されていません。ただし、意識や自己意識に関する研究は進行中であり、これらの研究によって霊魂や魂の存在についてのあたらしい知見が得られる可能性はあります」とのこと。

科学的な研究と言えば、先のウィキペディアは、「人が死ぬ前後では21グラムだけ重さが違う」という話をモチーフにした映画(作品名『21g』)などもあると紹介している。この21グラムが霊魂の重さだとする研究は面白いのだが紙数が尽きたのでいずれ続きを―。(2023・5・27 山崎義雄)