ババン時評 この世とあの世の境を覗けば

俗に、諦めの悪いことなどを「往生際が悪い」などと言うが、仏教が教える「往生際」とは正しい信仰心をもって死に臨むことであり、また閉口すること、困り果てることを「往生する」というが、仏教が教える「往生」とは極楽浄土に往って仏に生まれ変わること、であるという。ただし往生際を超えた先に「あの世」があり極楽浄土があるかどうか私のごとき凡俗の徒は知らない。知らないが、仮にあの世など無いと思ってもムキになって無いことを主張するより、あると思えるならそのほうがさらに精神世界がグンと広がることは確かだろう。

そんなあの世があると仮定して、あの世の入り口を覗く疑似体験を「臨死体験」とか「幽体離脱」などという。古今東西にわたるそれらの研究から『ウイキペディア』は、あの世を覗く臨死などの体験を10パターンに編集している。この⑩パターンを自分流に分かりやすく少し“再編集”させてもらうと、①死の宣告が聞こえる、②心の安らぎと静けさを覚える、③耳障りな音が聞こえる、④暗いトンネルを通る、⑤物理的な肉体との離脱を知覚する、⑥死んだ親族や知人に出会う、⑦神や自然光に包まれる、⑧過去の人生が走馬灯のように見える、⑨現世と死後との境目を見る、⑩蘇生を知覚する、などの体験をするという。

私事で言えば前にも書いたが上記の②と⑦を併せた体験をしたことがある。花畑に寝ていて②と⑦を感じていたが、いきなり③の耳障りな音プラス振動を身に受けて⑩の蘇生を知覚した。③の不愉快な音と振動は駅のコンコースで乗せられて救急車に運ばれるストレッチャーの小さな車輪が伝えるものだった。花畑の気持ちよさを破って、ストレッチャーの小さな車輪が伝える意外に大きな音とガタガタと骨に響く振動が忘れられない。

ちなみに⑤の「幽体離脱」は意識や霊魂が肉体から離れて行く現象であり、その霊魂の存在を証明するために米国の医師がその計量に取り組んだ話はよく知られている。1907年、アメリカのダンカン・マクドゥーガル医師は、死を迎える患者のベッドに計量器を取り付けて、命の尽きる前後の体重計量を繰り返した結果から魂の重さは21グラムと算出した。この研究が『ニューヨークタイムズ』に発表されるや、医学界にとどまらず一般市民まで巻き込んで賛否両論が沸き起こったという。

あれこれと書いてはみても、立派な往生際を迎える自信も覚悟も足りない凡俗の徒としては、「往生際」を迎えてどんな悪あがきをするかも分からない。願わくは、往生際には、不測の事故などで突然命を奪われるようなこともなく一言いう時間に恵まれたら「ありがとう」と言って死にたい。家族に、友人・知人に、この世に感謝して死にたいと思う。

そして人様の死を見送る場合も、恩義にあずかった人の場合はもとより、生前に相当の迷惑を被った人の場合でも「ありがとう」「ご苦労様」といって見送りたいと思う。被った迷惑も苦労も束の間の人生の味わいであり彩(いろどり)であり、これも人生の恵みであるとさえ思うからだ。今どきの表現で“終活”を迎える歳になるといよいよその思いが強くなるようだ。(2023・8・25 山崎義雄)