ババン時評 「バチ当たり」の中身

企業倒産、失業、生活苦とコロナ禍によって国民の生活が脅かされている中で、信じられない調査結果が出た。読売新聞がこの3~4月に実施した世論調査である。なんと自分の生活は「中流だ」とする回答が72%の高率だ。前回64年調査の74%とほぼ変わらないところが不思議である。

この調査でもうひとつわからなかったのは、「バチ当たり」についての意識である。自分勝手なことをすると、「バチ」が当たるということが「ある」とする回答が76%に上る。前回64年調査では「ある」が41%、「ない」40%が拮抗していたのである。拮抗するのが健全な判断だと思うが、バチが当たることがあると考える人がいきなり7割強になったのはなぜか。コロナと関係あるのかないのか。

先ごろ小池都知事が、「東京アラート宣言」に追い込まれる前に、夜の巷で遊ぶ若者たちがコロナ感染を増やしたとして悔しさを滲ませていた。アラート宣言後も、東京歌舞伎町の“接待酒場”などをやり玉に挙げている。あるいはそういうところに通う若者たちも「バチが当たる」例として多くの人々に見られているのだろうか。

だとすれば、この調査で「バチが当たる」ことが「ある」とした7割強の人たちには、自分の体験や自戒からの回答なのか、もっぱら他人を批判する立場からの回答なのか、あるいはどちらも含めて「バチが当たる」ことの「ある」ことを肯定し、あるいは戒める常識的な回答なのかを聞きたくなってくる。

情けない話だが、この調査では、「バチが当たる」ことが「ある」よ、と他人批判をした回答(が多い)ということになると、これにはコロナも関係ないとは言えないが、すでにコロナ以前に、ネット社会での無責任な誹謗中傷で人を死に追いやるほどに他罰的な傾向が強まっている時代背景がある。

前回調査では「ある」と「ない」の回答が4割前後でバランスしていた国民の意識が、今回7割強に跳ね上がった意味、それが己を省みる自戒ではなく、もっぱら他罰的な「バチ当たり」肯定論だとしたら、これこそ「バチ当たり」な了見違いではないか。この恐ろしさ、事の重大性はもう少し真剣に考えるべきだろう。(2020・6・3 山崎義雄)