ババン時評 安倍首相の“自衛隊擁護論”

 

安倍首相は、政局の風向きが変わって下火になりそうな憲法改正機運にいら立ちをみせている。今国会では、地方自治体の6割強が自衛隊員募集活動に協力してくれないなどと、見当違いな恨み言を述べ、自衛隊員が可哀そうという同情論で9条改正の必要性を訴えている。自衛隊合憲論をいう憲法学者は2割ほどしかいないとボヤくのも情けない。

従来から安倍首相は、憲法9条に自衛隊の存在を明記したいというかねてからの持論を説明するにあたっても、「憲法違反かもしれないが、何かあれば命を張ってくれ」とは言えないという同情論を繰り返してきた。「憲法違反かもしれない」点についてのまっとうな論議を避けている。それを論議して、9条の理非を国民に分かってもらったうえで審判してもらうのが9条改正の本道ではないか。

要するにそもそも自衛隊憲法違反から出発した。多くの憲法学者が言うとおりである。しかし現実に自衛隊は存立している。国民の大半は自衛隊の存在を認知している。それならば具合の悪い9条の条文をまともな形に改正すべきではないか。言ってしまえば身も蓋もないが、“安倍改憲論”より“石破改憲論”のほうがまっとうだということになる。

具体的に9条を考えると、1項にいう「戦争の放棄」は、「国際紛争を解決する手段としては」戦争しないということである。戦争には、向こうから仕掛けてくる戦争と、こちらから仕掛ける戦争がある。国際間のもめごとを解決する手段として、面倒だから「やっちまえ」とこちらから仕掛ける戦争という手段は用いないというのが「戦争の放棄」である。

だから9条2項にいう、「戦力の不保持」は、戦争を仕掛けるための戦力でなくて、しかけられた戦争を防ぐための戦力だと言うことになる。向こうから仕掛けられた戦争は受けて立たざるを得ない。受けて立つためにはそれなりの武力が必要だ。具体的には現存する自衛隊の戦力が正当に認められることが必要だ。そして、自衛隊が正当に動ける自衛権や集団安全保障が必要だ。

そのことを分かりやすくするために、憲法9条をこう変えたいのだが、と条文案を示し、国民の理解を得て、国民の審判を仰ぐべきだ。その方が安倍首相の期待するまっとうな自衛隊擁護論の実現にたどりつく道ではないか。(2019.2.19 山崎義雄の「中高年ババンG」に関連稿多数あり)

ババン時評 呆れた「天皇謝罪要求」

 

呆れた話だ。日韓の間でこじれている慰安婦問題について、韓国国会議長の文喜相(ムン・ヒサン)とかいうご仁が、天皇陛下が元慰安婦の手を握り「本当に申し訳ない」と謝罪すれば「その一言で問題は完全に解決する」と述べたという。それに抗議した日本政府の対応には、「韓日両国間で不必要な論争を望んでもおらず、起きてもいけない」と語ったという。

文議長は、文在寅政権の大統領特使として訪日したこともある日韓関係のパイプ役であり、それ以前には韓日議連会長でもあったという。「起きてもいけない」「不必要な論争」を起こしたそもそもは、かりにも「知日派」とは言い難い日本人の真情に理解が及ばない不見識だ。

さらには、今上天皇先の大戦を起こした「戦争犯罪人の息子」とまで言ったという。いたずらに日本の国民感情を刺激しておいて「不必要な論争を望んでいない」とはどういうことか。政治に介入しない象徴天皇としての立場も知らない元韓日議連会長とはあまりに情けない。知っていて意に介さず、天皇まで引き合いに出すのは日本の精神文化まで土足で踏みにじるに等しい。

これは前にも書いたことだが、日本の天皇は、歴代、民の安寧を祈ってきた。古代の崇神天皇は、疫病が流行って多くの民が死んだとき、この悲惨な状況が続くのは自分の神祭りが足りず、天に祈りが届いていないために神の咎めを受けているのだと自らを責め、神に助けを乞い願ったという。加瀬英明著「日本の奇跡、中韓の悲劇」では、『平安時代平城天皇は、大規模な水害に見舞われた後に、「朕の真心が、天に通じず」天災を招いてしまったが、「この災いについて考えると、責任は朕一人にある」といって、自分の不徳を責めている』と言っている。

現代でいえば、昭和天皇マッカーサーに「私は、戦争遂行の過程で発生したすべての事態に全責任を負う。全指揮官と全政治家の行動にも責任を負う」と述べている。しかし米国はこれを言質にとって利用しなかった。

ひるがえって韓国は、李氏朝鮮王朝の殺戮・暗殺の歴史、韓国初代大統領 李承晩に始まる大統領による殺戮・暗殺、複数大統領の刑死・自殺の歴史を忘れてもらっては困る。韓国政府の対応には、文議長の「日韓両国間で不必要な論争を望んでもおらず、起きてもいけない」という言葉をそっくりそのままお返ししたい。(2019・2・15 山崎義雄)

ババン時評 どこまで続く「貧富の格差」

 

貧富の格差はどこまで拡大するのだろうか。報道によれば、国際NGO「オックスハム・インターナショナル」のレポートでは、2018年に世界で最も裕福な26人の資産の合計が、経済的に恵まれない世界人口の下位半分(約38億人)の資産合計とほぼ同じだという。

そこで同団体は、富裕層への課税強化が必要だと提言する。かりに世界の富裕層1パーセントの資産に0.5%の課税強化をすれば、年4千億ドル(約44兆円)の増収となり、これで、たとえば学校に行けない2億6200万人の子供が教育を受けられ、医療サービスで330万人の命が救われるのだという。

私は先に、「初夢-限りなく明るい日本」で、こんなことを書いた。『消費税アップだけでなく、年収1億円超の高額所得者への大幅所得課税と企業住民税・事業税の倍増を実現した。これで「所得格差」に対する一般国民の不満が大いに解消された。おかげでプライマリーバランス(財政の基礎的収支)が大幅に改善し、1千兆円近くあった国の借金が大幅減少に向かった』と。

上記の国際NGOと同じ主張で、富裕層への資産課税の重要性をはっきり指摘したのは、4年前に大ブームとなったトマ・ピケティである。その著書「21世の資本」は、資本主義をこのまま放っておくと貧富の格差が際限もなく広がって行くので、富める者から税金で取り立てて格差の是正を図るべきだと言い、それには資産や所得隠しの海外流出を許さない国際的な協調体制が必要だと指摘した。

ピケティ理論を補強するように3年前には「パナマ文書」が発表された。これはジャーナリスト集団による、パナマをはじめとするタックスヘイブン(課税回避地)を利用した税金逃れの実体告発である。日本の“疑惑”企業や資産家の脱税・カネ隠しの疑惑事例も出るには出たが、脱税と決めつけられなかったり、指摘するほどでもないケチな金額だったりで不燃焼のままウヤムヤになった。しかし実際は、日本から海外への資金逃避は年間60兆円超であり、国家予算にも迫りかねないという指摘も出た。そのアナを一般国民の消費税で埋めるというのでは情けない。

ピケティは、“富裕層”と“貧困層”の激突が生じると言った。すでに世界各地で国民の不満が爆発しつつある。「21世紀の資本」は、資本の横暴をこのまま放置すれば、戦争勃発のトリガーになるという警告の書でもあるのではないか。(2019・2・12 山崎義雄)

ババン時評 偉い人の言うことは聞け

 

いよいよ今年から、中学校で道徳の時間が始まる。たまたま、現下の諸問題に、「はっきり言わせていただきます」(前川喜平×谷口真由美著 集英社刊)という本が出た。前川氏は2年前、加計学園問題に関する「総理のご意向文書」の存在を記者会見で認め、「出会い系バー」通いで名を挙げた?元文科次官だ。

同書では、「教育が直面している厳しい現実」(第3章)について熱く語っているのは当然だが、一家言あるはずの道徳教育については、『「道徳」が本当に危ない!』と言いながらあまり深掘りしていない。わずかに、安倍首相の祖父 岸信介内閣が小学校教育に「道徳の時間」をつくり、第二次安倍内閣が「道徳教科書」を作った経緯を語り、具体例では、教科書から「星野君の二塁打」という話を引用して語っている。それは、監督のサインは送りバントだったのに、とっさの判断で星野少年がバットを振り、二塁打にして決勝点を上げたものの、ルール無視はいけないと諭された話を引用し、その怖さを指摘する。

話は飛ぶが、「文芸思潮」(アジア文化社、2018秋号)に、前川氏の「政治と教育のはざまで」と題する講演記録が載っている。ここでは「星野君の二塁打」について、もっと熱く語り、「道徳」の中身を憂いている。今バッターボックスに立っている星野君の緊張、コーチのバント・サイン、一塁の俊足 岩田君、コースに来た絶好球、などについて実況中継風の語り口で試合内容を紹介する。結局、星野君の一打で試合に勝って上の大会への出場権を得たものの、試合の後のミーティングで、勝つことよりもルールを守ることが大事だと諭され、星野君は次の試合への出場停止となる。

前川氏は、実際の道徳の時間では、あなたが星野君ならどうする、あなたが監督ならどうすると、みんなで話し合う必要性を指摘する。文科省の立場は、特定の価値観を刷り込むことをせず、子どもたちが「考え、議論する道徳」の実践を勧めているのだという。さらに、「星野君の二塁打」の話は「ルールは守れ」「偉い人の言うことは聞け」「自分で判断して動くな」という教えを子供たちに刷り込むものだと総括する。その前川氏は、省内の秘匿「ルールを守らず」、安倍首相ら「偉い人の言うことを聞かず」、信念に従って「自分の判断で動いた」ことで失脚した。これを皮肉と言っては失礼で、おのれの良心に従って決断した前川氏は偉かったというべきではないか。(2019・2・8 山崎義雄)

ババン時評 北方四島を分断させるな

国民にとって悩ましい問題のひとつに北方四島問題がある。北方四島に対する国民意識の低さを嘆く意見もある。しかし日ロ両国の主張や専門家の論争はコトを難しくするが、多くの国民は、歴史的に常識的に北方四島は日本の領土だと知っている。

先の日ロ首脳会談に先立って、ロシアのラブロフ外相は、「南クリル(北方領土のロシア側呼称)は第二次世界大戦の結果、正当にロシアが得たものであり、南クリルの主権はロシアにあることを、日本は完全に認める必要がある」と言った。これがロシアの本心だ。

日本の歴代内閣の基本姿勢は北方四島すべての返還を求めるものだ。それが、1956年の日ソ共同宣言では、2島返還での決着を求める姿勢に転じたように見える。安倍首相は、その共同宣言を基礎に交渉するといい、2島返還を考えているらしいのは問題だ。プーチン大統領は、その日ソ共同宣言には、島を引き渡すとしても「主権」まで引き渡すとは書いていないと言った。驚くべき屁理屈だ。書かれていないのは自明の理だからで、土地と主権の2つがあってはじめて領土ではないか。

近年のウクライナやクリミア併呑をみても、ロシアという国は力づくで他国の領土を略奪する国家だ。歴史的にはさらに豊富な他国侵略の事実がある。片や日本は、朝鮮を侵略してみたが敗戦で簡単に取り上げられ、歴史的には秀吉が朝鮮を取り損ねた一例があるだけだ。日本は、現代の先進国中でも他国を取らない稀有な平和国家だ。

返還も、ロシアからすれば「返還」ではなく「贈与」だということになるのだろうが、返還も贈与もする気のない北方四島について、まず平和協定を結んでそれから話し合おうという。戦争の引き金ともなる国境紛争を解決しないで平和協定を結ぶなどあり得ない。ロシアの理屈は、平和協定と領土問題の解決手順を逆にした勝手な言い分だ。

北方四島は歴史的にも日本の領土であることは1855年の日ロ和親条約などでも明らかだとされる。日本はあくまで4島返還を要求すべきだ。歯舞・色丹2島をエサにしたロシアの商取引にごまかされず分離して考えるべきで、日本にとって真に利益のある経済案件ならば、それに限って外交交渉を進めるべきではないか。(2019・2・5 山崎義雄)

ババン時評 ジョウゴのなげき

 

正月やら新年会やら、年の初めは酒を飲む機会が多い。当方は大の酒好きで、平成の最終ラウンド、今年の正月もまた飲み過ぎた。気になるのは持病の糖尿病である。ところがいつもの血液検査を受けたら、なんと前回より関連数値が改善していた。肝臓系も問題なかった。

俗に酒を飲めない人を下戸(げこ)と言い、飲める人を上戸(じょうご)という。戸は家を意味するので酒を飲めないほど貧しい家を下戸といい、心配なく酒を飲める豊かな家を上戸という、との説もある。医学的には、酒を飲める人と飲めない人の体質は、親からもらった遺伝子によって決まる。

飲ン兵衛は「うわばみ」とあきれられたり、「酒豪」とたてまつられたり、飲んだあげくに顔が赤くなったり青くなったりする表情や態度から「笑い上戸」「泣き上戸」などという表現もある。困り者に「アルハラ(アルコールハラスメント)」がある。アルハラは酒の上での嫌がらせを指す和製英語だが、こうした迷惑行為は昔からあった。「酒の飲めない奴は話にならん」などと言ったり、酒席で「オレの注ぐ酒は飲めンのか」などと強要するとか、酩酊状態で他人に絡むなど、古典的なアルハラである。そういう“単独犯”的なアルハラから、昨今は単独犯でも精神的ないじめに近い陰湿なアルハラとか、集団的な一気飲み強要で死亡者が出るなど、アルハラの内容が変化しているようだ。

話は飛ぶが、友人の奥方が、袋詰めの「きな粉」を買ってきて、ビンに詰め替えようとしてジョウゴ(漏斗=ろうと、とも言う)を使ったという。誰でも知っているジョウゴは、アサガオ形というかラッパ形の用具で、ビンなど比較的口の小さい容器に液体を注ぎ込むときに使う用具である。辞書では同音の「じょうご」で、「上戸」の横に「じょうご(ジョウゴ)」が載っている。ジョウゴは、飲ン兵衛の上戸のように酒を飲み込むからついた名だという。

そこで友人の奥方がジョウゴにきな粉を盛り込んだが、細い口に詰まって一向にビンの方に入って行かない。奥方は箸を一本使って突っつき廻してきな粉を落下させようと奮闘したという。ジョウゴが口を利いたら「オレは上戸だ。酒は飲めるがきな粉は勘弁してくれ」と言ったかもしれない。これはジョウゴにとってみればアルハラならぬパワハラだ。何事においても無理強いはいけない。(2019・2・2 山崎義雄)

ババン時評 AIに食われる古典絵画

AI(人工知能)の進化が止まらない。類書が書店の店頭を賑わしている。「人間ってナンだ? 」というのは、「超AI入門」を掲げるNHKテレビの教養番組だ。1月は、AIが「会話する」「感じる」「発想する」「移動する」ための仕組みや働きを紹介。

その中の「発想する」AIで、古典絵画の巨人 レンブラントの絵画技法をディープ・ラーニングで学んだうえで制作したというレンブラントの新作(偽作?)には驚いた。拡大して見せられた目の精緻な構造、表現の筆さばき?などは、大変な技量を示している。人生の楽しみを油絵制作にかけてきたわが身としては、このような例を見せられると、やる気の高揚より意気阻喪に陥りそうだ。

芸術分野のAI化では、まず俳句あたりかとは想定できた。戦後の文壇で、俳句の文学性を否定した桑原武夫の「第二藝術論」がある。これは限られた語数で相も変わらぬ花鳥風月などを詠う俳句は、「作家の思想的社会的無自覚」と「安易な創作態度」が生み出す安易な「第二藝術」だというのである。だとすれば、過去の作品をデータ化し、「無自覚」「無思想」「安易」に語句を組み合わせる俳句は、容易にAIに攻略されることになる。ただし現実には今も俳句は隆盛である。

次いで音の組み合わせによる音楽がやられるだろうと考えていた。楽曲は限られた音符の組み合わせであり、歌曲のジャンル別に過去の作詞と作曲をデータ化し、そして特徴を覚えさせれば、ジャンル別の歌詞や特徴に合ったメロディーと組み合わせ、得意の高速演算能力でたちまちAIはそれらしい音曲をいく通りでも作曲するであろう。

言語や音符といったAI好みの限られたツールを持たず、「思想的社会的自覚」を持ち、「個性的な創作態度」で生み出す絵画は、そう易々とはAIに浸食されないだろうとタカをくくっていたら、アルゴリズムやら3DスキャナーやらのAIスキルで攻め込んできて、レンブラントが陥落したのだから驚いた。

ただしこのAIレンブラント作品に、簡単には降参したくない。レンブラントの技術を剽窃し、加工した作品に創造性、芸術性を認めるわけにはいかない。俳句、音曲にもそれは言える。私は、AIに優る人間の特性は「きまぐれ」だと思っているが、AI藝術には「きまぐれ」や「高揚感」、何より「表現したい」という心がない。(2019.1.30 山崎義雄)