ババン時評 “ひきこもりびと”の生き方

このほど、元農林水産次官が、自立できずにひきこもり、暴力を振るう長男を刺殺した事件の判決が出された。懲役8年の求刑に対して6年の実刑となった。この事件は、単純で残虐な子殺し事件とは同一視できないものの、事件の根本原因は被害者が“自立”できていなかったことにあろう。

今、ひきこもりの高齢化が問題になっている。その面倒を見る親も高齢化する。80歳の親が50歳のひきこもりの子の世話をする。いわばひきこもりの老々介護である。深刻な問題だが、世間の目を隠れる家族の孤立化などで、その実態はなかなか把握できないようだ。

内閣府調査によると、40~64歳の中高年のひきこもりの人は全国に推計で約61万3000人。全国にある公の「ひきこもり支援センター」は75カ所、相談件数は17年度で約10万2000件、5年で約3倍に増えたという(読売新聞12・12)。

10年以上も前に出た本だが、土居健郎 齋藤孝著『「甘え」と日本人』(朝日出版社)にこうある。現代は不定愁訴や引きこもり、摂食障害など多種多様な精神の病が広がっている。それは、現代に広がる人間関係の病だとして、その根本に自立を重視して健康な「甘え」を喪失した時代背景がある、というのだ。すなわち「自立」を重視して「甘え」を許さない風潮に疑問を呈しているのだ。

さらに、自然な甘え、とりわけ幼少時からの「甘え」の肯定が自然な自立を促し、溌剌とした生命力や豊かな人間関係を育む、ともいう。だとすれば、子にとっては立派過ぎる?親による子への期待や教育も重圧になり得よう。これは今回の農水省元次官による子殺し事件と関係ない話であろうか。

そこで問題は、自立とは何か、ということである。一般的には、普通の社会生活を送り、何か仕事をして収入を得られれば本物の“自立”ということになろうが、それを“ひきこもりびと”に求めるのは当たり前か。一歩進めて考えれば、“ひきこもりびと”には、それにふさわしい別建ての“自立と生き方”があるのではないか。

今どきは、「自己に甘く他人に厳しい」人間が幅を利かすストレス過剰の世の中である。引っ込んでいてもらいたいような人間がのさばっている世の中である。このあたりで、“ひきこもりびと”を引き出して単純に“自立”を求めることの意味と必要性を考えてみてもいいのではないか。(2019・12・17 山崎義雄)

ババン時評 読み書き嫌いな子が増えた

これは、子供ばかりとは言えないのだが、今、日本の子供たちの国語力の低下が問題になっている。近年とみに文章を読めない書けない子供たちが増えているという。読む力が落ちるということは、文章の意味を理解するだけでなく、人の話を理解する能力も低下することになるのは明らかだ。

経済協力開発機構OECD)の国際的な学力調査によると、世界各国の15歳の学力を比較したところ、日本の子どもは科学と数学はトップレベルを維持しているものの、問題の読解力では、前回(2015年)もダウンしたが、今回はさらに落ち込んで15位になったという。

「今の学校は英語や道徳など新たな課題が山積し、読解力の育成が難しくなっている」と指摘する専門家の声もあるというが、そればかりではないだろう。むしろ問題はSNSの普及、スマホの普及ではないか。乏しい単語のやり取りや絵文字やイラストで友達とのコミュニケーションは済むのだから、長文を苦手になるのも当たり前だ。

しかしこれは今に始まった現象ではない。子供世界がこうなる前に、すでに若者から中高年世代までその傾向を強めてきていたのではないか。引き合いに出すにも程度が低すぎるが、先ごろ、安倍首相の北海道での選挙演説に、「安倍やめろ」とヤジを連呼して警官に阻止された男が、言論の自由を侵害されたとかで告訴すると騒いだ。

男は団体職員だというからいちおう常識的な大人のはずだが、そうでないところが困りものである。「安倍やめろ」が「言論」だと思い込んでいるバカさ加減は、さすがに世の笑いものになった。対比するのも失礼だが、「言論の自由」を侵害されたと主張できるのは「ヤジ男」ではなく安倍首相の方であろう。

このほど論文形式による国語などの全国共通テストが中止になり、次いで記述形式の大学入試テストが見送りとなった。理由は、評価が不公平になり易いことだ。しかしそんな理由で論文・記述式を否定するのは不可解だ。読み書きを嫌う子供たちを増やさないためにも、全国共通テストなどができないなら、学校単位の特色のある論文テストを普及させるなど工夫すべきではないか。(2019・12・15 山崎義雄)

ババン時評 「なぞなぞ」日韓紛争

1)韓国は、1987年の「民主化」で、従来の法律や政策を見直す「憲法裁判所」を設置した。〈質問〉「憲法裁判所」の設置は ①正しい ②間違い ③分からない ④その他    

2)憲法裁は2011年、慰安婦問題の解決に努力しない韓国政府は違憲だと判断。〈質問〉慰安婦解決は韓国政府の責任 ①正しい ②間違い ③分からない ④その他   

3)大法院は差し戻し審を経て2018年、日本企業への賠償命令を出した。〈質問〉大法院の日本側への賠償命令は ①正しい ②間違い ③分からない ④その他  

4)軍事独裁の朴正煕政権が「植民地支配の不当性」を認めさせなかったのは誤り。〈質問〉したがって請求権協定を是正する ①正しい ②間違い ③わからない ④その他 

5)左派の廬武鉉政権(2003~08)が日韓の歴史問題を外交問題化した。〈質問〉歴史問題の外交問題化は ①正しい ②間違い ③分からない ④その他

6)2011年、李明博大統領が野田首相に解決を要求。翌年、抗議として竹島に上陸。〈質問〉慰安婦問題抗議での竹島上陸は ①正しい ②間違い ③分からない ④その他  

7)2012年、大法院(最高裁)が、韓国人元徴用工の請求権を認めた。〈質問〉元徴用工の請求権を認めたことは ①正しい ②間違い ③分からない ④その他 

8)2013年、朴槿恵大統領が日本に問題解決を求め、局長級協議すら3年半以上中断。〈質問〉韓国の主脳会談拒否は ①正しい ②間違い ③分からない ④その他 

9)2015年、日韓外相が、問題は「最終的かつ不可逆的に解決される」ことで合意。〈質問〉外相間の「解決合意」は ①正しい ②間違い ③分からない ④その他    

10)2017年、文在寅大統領が就任。慰安婦問題は未解決だと表明した。〈質問〉「未解決」との再表明は ①正しい ②間違い ③分からない ④その他

 さて答えはどうだろうか。韓国側から見れば①の答えが、日本側から見れば②が多いだろう。私的には、1)2)9)では①、それ以外は断固として②だ。ただし、1)2)の①は、いずれも韓国の国内事情による問題であり、日本にシリを持ち込むべき問題ではない。こうした明快な選択肢で彼我の判断が割れるところが日韓の深刻な現状だ。(2019・12・10 山崎義雄)

ババン時評 「倫理ロボット」がやってくる

いつの間にか日本の“タガ”が緩んで、あまりに情けない凶悪事件や金銭トラブル・人間トラブルが続く。そして今、政治・経済・教育・医学・スポーツ界から一般社会にいたるまで、あらゆる人間社会で倫理観の衰えや倫理・道徳の欠如が問題視されている。

それにしても、倫理・道徳は、“人間専科”の価値観だと思っていたが、そうでもないらしい。「ロボットからの倫理学入門」(久木田永生・神崎宣次・佐々木拓 著 名古屋大学出版会 刊)なる書物が2年以上も前に出ていることを知った。著者はいずれも京大卒の大学教授・準教授だ。実は読んでいないが知友の読後感をかりれば、その内容はこういうことだ。

まず同書の狙いは2つ、「ロボットから倫理学を考える」ことと「ロボットの倫理を考える」ことだ。そこで本書は問う。そもそも「道徳性とは何か」。しかしこれは本来、機械やロボットとは無縁・無関係に考えるべき“人間専科”のテーマであり、かつ安易に結論の出ないテーマでもある。したがって「そもそも機械は道徳的になり得るか」というテーマに対する答えも否定的にならざるを得ない。なおさら、「道徳的な機械は如何にして可能か」というテーマには、簡単に「ムリだ」と答えざるを得ない。

道徳も倫理も、人の行うべき正しい道だが、さらに言えば、道徳は規範的・行為的な側面をもち、倫理は内面的・意識的な側面を持ってより精神的な要素が強いといえよう。その精神作用をロボットが行うということは、凡俗の人間なら敬遠する哲学・宗教の世界にロボットが踏み込むことを意味するものだろう。

ともあれ科学者は、倫理を無視して科学的可能性を追求する。これまでの科学はそれをやってきた。倫理を無視して原子爆弾を開発し、倫理を無視して核兵器を作り、倫理を無視して今AI殺人兵器を作っている。今度は、倫理を無視して「倫理ロボット」の開発に向かうだろう。

近い将来、倫理観の衰えや倫理・道徳の欠如でますます混乱するだろうこの人間社会に、救世主のように「倫理ロボット」が登場する日がくるのだろうか。「倫理ロボット」が人間に教訓を垂れ、「道徳ロボット」が、人間行動の良否に断を下す日が来るのだろうか。いきなりだが、そんな世がくるまで生きたくはない。(2019・12・5 山崎義雄)

ババン時評 今も変わらぬ中国の“本性”

 “内向き米国”が、少し本来の“根性”を見せた。香港の人権侵害にノーを突きつけ「香港人権法」を成立させた。これに対して中国が「内政干渉だ」と強く抗議している。東西冷戦が終わって30年の今、米国という断トツの“ボス”が弱気になって、世界は“Gセブン”ならぬ“Gゼロ”時代を迎えている。ここで急激にのし上がってきたのが米国に取って代わる気の?新ボス中国だ。

司馬遼太郎に最後の著作「この国のかたち」があるが、司馬は、断固として日本の「国のかたち」があると考えた。司馬さんの名前は、司馬 遼 太郎で、司馬に遼(はるか)に及ばない(日本の)太郎という意だという。古代中国の司馬家は名門で、司馬さんが中国司馬家の誰を尊崇したのか知らないが、たぶん中国最古の史書史記」を著した司馬遷だろう。(当たり前だと笑われるか)

中国の国のかたちとはいかなるものか。今売れている渡邊義浩著「漢帝国400年の歴史」終章で筆者は大要こんなことを言っている。最後の中華帝国である清を倒した辛亥革命は、中国に近代化をたらしたかに見えたが、日本のような近代化や民主主義とは無縁だった。

その理由は、中国の官僚制にあるとする。豪族などまでみな高級官僚になることを目指し、すべての権力が国家に収斂された。また近代文学の祖・魯迅が「狂人日記」で言ったように、「儒教が人を食った」。中国の儒教は、教義を変えながらも古典中国の(歴代皇帝の)正統性を近代にいたるまで支え続けた。要するに中国は、歴代皇帝が強権をもって君臨し続けたということだ。

また、旧陸軍の大本営参謀・辻政信も、「先行三千里」(毎日ワンズ)で、孫文辛亥革命は近代的民主主義革命ではなかったと言う。これは満州朝廷に代わる孫文朝廷の建設を狙ったものだ。その後の蒋介石の狙いも軍権と政権の掌握だ。共産党の全中国統一もそれで、マルクス主義の社会革命ではない。中国4千年の歴史は、権勢を争う集団・個人の理念なき闘争史だと言った。

ならば中国の現政権も理念なき闘争史を今後も繰り返すだろう。米政治学者のイアン・ブレマー氏は、「日本は、政治的安定、先見の明、技術的人材に恵まれている。新たな世界秩序の形成に向けて、リーダーシップの一翼を担うべきだ」と言う(読売新聞11・17)。日本にそんな力があるかどうか知らないが、少なくとも“根性”の曲がっていない国として、日本はこれからの世界における紛争仲介者の任に相応しいのではないか。(2019・12・15 山崎義雄)

ババン時評 石ころの話

巨星墜つ、中曽根康弘元総理大臣が逝去した。おそらく戦後で1,2を争う代表的な政治家だろう。その中曽根さんとは全く関係のない「いい感じの石ころを拾いに」(宮田珠己著 中公文庫)という本が今、話題になっている。巨星の大政治家と河原の石ころでは天地の差があり、関係ない話なのだが、私には巨星と石ころにまつわる小さな思い出がある。

たぶん中曽根さんも子供の頃、近くの河原で小石を拾った思い出があるだろう。というのはこじつけだが、偉くなった人もならなかった人も、子供のころに河原の小石を拾ったことのない人はまずいない。「石ころ拾い」の著者・宮田さんは、いい石を探して全国を飛びまわった。

よくもまあこんな色や形の石があるものだと驚くほど多彩な石、宮田さん自慢の石が巻末にカラーで紹介されている。土地の名物や食い物などには一切興味を示さず、ひたすらいい石を探す宮田さんの石拾いに根気よく付き合ったのは、出版社の担当編集者だった武田砂鉄さんだ。

武田さんは中途で出版社を退社したが、本書の出版に当たって解説の執筆を依頼された。引き受けてはみたものの、意味のない?石拾いの尊さとか、どう解説すればいいのかと迷う。正直、石拾いに付き合いながら、「いつまで拾うんだろう」とか、「腹が減ったな-」などと思っていたものだ。石拾いが退社の転機になった、とでも言えれば恰好がつくのだが、実際はそうじゃない。今は、付き合いで?拾い集めた石を自宅の庭にばらまいて、風雨にさらしたまま、たまに眺めるだけだ。という武田さんだが、宮田さんとの仲は相当に“波長”が合っていたのではないか。

話は変わるが、かれこれ60年ほど昔、さる大きな禅寺の大僧正が、寺の幼稚園の遠足で都外 浅川の河原に遊んだことがある。その折りに大僧正は、子供たちに好きな小石を1つずつ拾わせた。これを保母さんたちが紙の小袋に入れて、子供たちに持たせてお土産にした。大僧正には石に仮託した思いがあったのだろう。

この話は、私が大学2年の頃、縁あってその寺に身を寄せていた?ころの話だ。あの小石を今も持っている卒園児はいるだろうかと、時折思うことがある。その大僧正と中曽根さんは群馬・高崎出身の同郷だった。そのせいか、あるいはどなたかの仏事の折りだったのか忘れたが、威風堂々の中曽根さんと、その寺の廊下ですれ違ったことがある。オーラに圧倒された。石ころの本から思い出した、小石と大僧正と中曽根さんー。セピア色の記念写真を見るような想い出である。(2019・12・4 山崎義雄)

ババン時評 “韓国のトリセツ”はあるか

 

隣の国がよく分からないというのは情けない。日本からすれば、韓国が失効期限ぎりぎりで「Gソミア」の終了を撤回した決断は当然だ。しかしその前提として、日本が対韓輸出制限を緩める方向で、韓国との協議の再開を約束をしたとかしないとかゴネだす。これが分からない。

日韓が分かり合えない根本原因は、歴史認識の違いに尽きる。彼我の歴史認識のズレを冷静に見ても、韓国側には最初から反日民族主義的で特殊な歴史観があり、日本には朝鮮統治の反省と同時に韓国の近代化に寄与したという自負がある。

誤解を恐れずに言えば、日本には欧米の新知識を取り込んで、欧米の植民地にもならずに、東洋で最初に近代化した優越感があり、韓国には中国の属国として生きてきた歴史の上に日本の支配を受けた屈辱感、劣等意識がある。そして双方に“引け目”がある。

「文藝春秋」12月号に、韓国内では非難される良識派歴史学者による座談会記事「反日種族主義を追放せよ」がある。そこでは例えば先の大戦で日本が募った韓国人の陸軍特別志願兵の話がある。韓国では、その志願兵は日本による「強制動員」であり「被害者」であるとともに「反民族行為者」だと非難される。ところが事実は自由意思による応召で、1万6,500人の募集に約80万人、およそ50倍の応募があったという。

韓国左派は、こうした都合の悪い歴史事実には目を向けず、強引に筋書きを歪曲する。その“得意手”で、日韓基本条約は無効だとか、徴用工補償は基本条約で縛られないとか、韓国大法院の判決が重要だなどと、国際常識から言っても通用しない主張を繰り返す。

しかしこの韓国を理屈で説得することはムリだろう。歴史認識の誤りを認めさせることも不可能だろう。要するにこの韓国に対処する有効な“韓国トリセツ”はない。といってこれまで通り日本が低姿勢を続ければ今後も舐められるだけだろう。

今回、Gソミア問題で日本が一貫して毅然とした態度を取ったことは、少なからず韓国を慌てさせた。今後も日本は、こうした是々非々の外交姿勢を(世界の耳目を集めながら)取り続けるべきだろう。その上で文春座談会のような“大人”の発言を待って、韓国側の自浄作用による歴史認識の修正を気長に待つしかなさそうだ。(2019・12・2 山崎義雄)