ババン時評 感染対策をリードする中国?

 読んだ人も多いだろうが、読売新聞社に中国・孔鉉佑駐日大使から、今次の新型コロナウイルス感染症対策に関して、「助け合って難局を乗り切ろう」と呼びかける一文が寄せられたという。駐日大使名の意見という形ではあるが、習政権のアナウンスと取っていいだろう。4・25紙面から寄稿のポイントを拾ってみた。

新型コロナウイルス感染が全世界に蔓延している。

・手を携えて協力し、共同で対処することが求められている。

・中国は「第1波」の攻撃に持ちこたえた。

・世界各国が感染に立ち向かうための貴重な時間を稼ぎ、また有益な経験を提供した。

・昨年12月末に武漢市で肺炎症例を発見し、今年1月3日、WHOと各国に情報を通告した。

・1月12日、新型コロナウイルスの遺伝子配列情報を全世界と共有した。

・すでに150余国と衛星専門家テレビ会議を開き15か国に医療専門家チームを派遣した。

・140余りの国と地域に医療援助物資を提供した。

・日本政府と各界から、(中国に)続々と無私の援助と真摯な支持が届けられた。

・中国から(日本に)マスク、防護服、PCR検査キッドなどの物資を義捐した。

・日本が必ず感染に打ち勝つと信じ、期待している。

 という内容である。新型ウイルスと中国に対しては何度も「ババン時評」で書いているのでこちらの意見は控える。

 その上で一言感想を述べれば、この寄稿文は、というより中国政府は、習主席は、「コロナ対策は世界の共同責任である」ということと、その中で「中国は率先して感染防止に貢献している」という2点を主張したいらしいナーということである。(2020・5・7 山崎義雄)

ババン時評 コロナ「長丁場」の終点は?

“目くじら立てる”とは古い言い回しだが“長丁場”も古い。目くじら立てるほどのことではないかもしれないが、5月1日、政府のコロナ対策専門家会議が、コロナ対策は「長丁場」になると提言した。なぜ「長丁場」なのか。なぜ「長期戦」などの表現ではいけないのか。どうやらコロナ対策は“いくさ”や“戦争”ではないという認識からの言い換えらしい。

「長丁場」の意味は、物事が終わるまで長くかかるという意味だが、“出自”は、昔の街道の宿駅から次の宿駅までの間が長いことを言ったもので、特に今の若い人には馴染みの薄い言葉だろう。それに、「戦=いくさ」がいけないなら「神経戦」や「棋聖戦」や「受験戦争」などの表現もよくないことになる。この「長丁場」は、才気煥発?な小池都知事の「三密」のようには流行らないだろう。

専門家会議が「長丁場」に言い換えるほどに日本語にこだわるなら、コロナ周辺で氾濫する横文字は気にならないのだろうか。たとえば「パンデミック」「クラスター」「オーバーシュート」だ。パンデミックは「広範囲に及ぶ流行病」、「クラスター」は「集団内での感染」、「オーバーシュート」は「爆発的な急増」といった意味とされる。いずれも多くの日本人にとって、とりわけ中高年者にとてはなじみにくい横文字である。

それぞれ訳語もあるようだが、流行らない。「長丁場」を考えるヒマがあるなら、(専門家会議とは限らないが)たとえばパンデミックは「広域感染」とか、クラスターは「集団感染」、オーバーシュートは「感染急増」などとし、その後にカッコつきで横文字を入れるなど、表記の仕方を工夫をしてはどうだろうか。もちろん日本語ならいいというわけではない。コロナ当初から言われて今は使われなくなった「濃厚接触」などは気色の悪い言葉だった。

もちろんこの一文、専門家会議にケチをつける意図はない。提言の現状認識、新たな行動対応要請、地域医療体制の強化は正当で喫緊の課題である。そのうえで、ついでに言えば、コロナは、世界人口の3分の2が“耐性”を獲得するまで、この先2年ほどは収まらないという説もあるようだが、国民は疲れている。できれば「長丁場」の終点も教えてもらいたい。(2020・5・4 山崎義雄)

ババン時評 背中で生きる人生

昨年3月に92歳で死去した俳優・織本順吉さんは、存在感のある俳優で、映画、テレビ、舞台などで幅広く活躍した。映画では深作欣二監督作品の常連だった。ご自身は「刑事役もヤクザ役もそう変わりはない。人間である以上、内面にはどこか共通する部分があるから。人物像を総合的にとらえれば、どんな役も違和感はない」と語っていたと言う。

テレビBS1(4月22日)で、織本さんの晩年を娘さんの結美さんが撮ったドキュメント「老いてなお花となる」を観た。織本さんの、死に至るまでの5年間を記録したもの。目を背けたくなるほどの惨めな姿と相貌でベッドに横たわる父の姿など、他人の目にさらしたくないような老いの日常を冷徹にカメラで追っている。

セリフ覚えがよく、撮影現場に脚本を持ち込むことがなかったという織本さんが、晩年に至ってはセリフを覚えられなくなり、妻に当たって反撃され、老いの形相で激しく怒鳴りあい、テーブルを叩き、そして落胆する場面など、役者としての屈辱的な場面も結美さんのカメラが追う。その撮影を織本さんは役者魂で受け入れる。

結美さんは創作の動機について、家庭を顧みずに役者道を生きてきた父に対して、許せないという思いもあり、いわば復讐だとまで言う。その娘に、完成フイルムをみた父が「よく撮った。お前でなければできなかった」と言う。このドキュメンタリーは、演技者と制作者の格闘でもあった。

こうした役者魂で娘のカメラに身をさらした織本さんが、「撮るな、背中から撮るのは止めろ」と激しくカメラを拒否した場面がある。玄関を出て妻に支えられながら前かがみに少し歩き、力なく敷石に座り込む後ろ姿である。

これは、幅広い役柄をこなしてきた織本さんにしても、コントロールの効かないのが人間の背中だったということではないか。老いの実相は隠しようもなく、演じようもなく無残に背中に現れる。万能の演者である織本さんにしても制御不能で撮られたくないシーンだったのではないか。

このドキュメントを見て思ったのは、人間だれしも、こんな背中を背負って生きるということである。そして人間だれしもが演技では演じようもない背中を背負って、たった一つの人生を演じる主役だと改めて気づかされた。(2020・4・26 山崎義雄)

ババン時評 コロナ防止の旗手は中国?

あるテレビ番組で、知識人?で常連コメンテーターの一人が、コロナ対策でトランプ大統領は世界的な役割を何もやっていない。一番頑張ってやっているのは中国だ、と言っていた。見当はずれで中国の思うつぼにハマる発言だ。

たしかにトランプの自国第一主義のコロナ対策は困りものだが、中国の動きはそれどころではない。中国は今、世界にマスクや医薬品を配り、時には医師団を派遣し、新薬の生産・供給を急ぐなどして、世界を、とりわけ途上国を手なずけて取り込もうとしている。

中国コロナの突きつける課題はいろいろだが、3つほど挙げれば、①国際化時代に必要なグローバルな国際連携、②防疫強化がもたらす国家権力の拡大・強化、③情報機器の利用による監視社会と人権侵害の拡大、などだろう。

①で言えば、中国は、コロナ隠しの情報統制を強めて、国際的なコロナ対策に必要な中国の実態に関する十分な情報提供を行っていない。コロナ発生源の責任転嫁まで策略を巡らしている。要するに独善的な中国はグローバルな国際連携を阻害する。

②で言えば、習主席への権力集中が強化され、コロナ防止に必要な政府内の情報共有や関係機関への権限移譲が行われていない。政権幹部も関係機関も習主席の指示がなければ何も言えない、動けないという。明らかに西側諸国の民主化と決別する方向だ。

③で言えば、国民はネットや顔認証システムなどで監視され、反政府発言は厳しく封じられている。コロナでも、ハイテク技術で感染者の行動経路や位置情報の把握から強制隔離まで管理されている。この人権侵害の社会監視はコロナ後も強化されるだろう。

こうして中国は今、コロナ発生の責任も明らかにせず、これを奇禍として国家権力の強化と世界覇権を狙う。戦後の歴史の上で、中国の経済発展を支援すれば民主化が進むと考えた西側リーダー諸国の期待は見事に裏切られた。コロナ禍まで逆手にとって世界覇権を狙う中国に世界はどう対処するのか。少なくともトランプ流一国主義では対応できないことは確かだ。(2020・4・23 山崎義雄)

ババン時評 東北人の自制心と忍耐力

 この小文を発表する4月半ばの時点で、唯一、コロナ禍に見舞われずに頑張っているのは岩手県だけだ。私の郷里でもあり、なんとかこのまま頑張ってもらいたいと願うばかりだ。岩手に限らず東京など都会で暮らす東北出身の高齢者は、生まれ故郷の東北弁に劣等感を持ちながらも、厳しい風土が育ててくれた忍耐力で生きてきた者が多い。

山口謡司著『日本語を作った男』は、国語学者上田万年の業績を辿るまじめな本だが、冒頭で、全国から人の流入する明治維新の東京では、お互い何を言っているのか分からない混乱の中で生きていたと言い、さるお屋敷で多くの奉公人がお里丸出しの方言で珍妙な会話を交わす様子を、井上ひさし著『国語元年』を借りて面白おかしく描く。井上も岩手県との所縁が深い。

浅田次郎の小説には本格的な東北の風土や東北弁がふんだんに出てくる。映画やテレビドラマにもなった『壬生義士伝』では、貧困から南部藩を脱藩して新選組隊士となった主人公・吉村寛一郎が方言丸出しだ。北辰一刀流免許皆伝の腕前を生かして人斬りも厭わず金を稼ぎ、妻子のために送金する。人柄は朴訥で腰が低く、時には卑屈にさえ見える。

その寛一郎の口をついて出る言葉に「おもさげながんす」がある。「申し訳ありません」という最上級の詫び言葉だ。常に「おもさげながんす」と言いながら稼いで生きる。最後は鳥羽伏見の戦いに敗れ、瀕死の態で大阪の南部藩藩邸にたどり着き、義と意地を貫いた一生を切腹で締めくくる。

もしも藤原三代の奥州平泉が義経と心中せず、京都に対抗して生き延びて、ひょっとして今、平泉が日本の首都になっていたら、ズーズー弁が「ひょうずんご」(標準語)だ。「すすけ」(寿司食え)」、「もずけ」(餅食え)、「ツーズけ」(チーズ食え)、「さげッコのむベス」(酒を飲もう)となる。

東北人の気質もいろいろだが、総じていえば、忍耐、根気、寛容、無口などの自制的な気質が強いのではないか。学習院大教授の赤坂憲雄氏は「東北学」で大変な著作を持つが、持論として、名古屋、京都、福岡などは「中世以来のケガレや差別の風土を濃密に持つが、東北には差別がない」と言っている。東北人は、穏やかな東北弁の内に、強い自制心と忍耐力を秘めている。東北頑張れ、岩手頑張れ。(2020・4・18 山崎義雄)

ババン時評 発言時代×聞く耳喪失=SNS

昔?評論家の大宅壮一が、テレビの出現で日本人は「一億総白痴化」すると予言したことがあるが、今はSNS(ネットの交流サイト)の拡大などで「一億総発言時代」である。そのSNSで最も手軽な発言手段がツイッターだ。自分の意見をツイートするだけでなく、他人の意見もそのままリツイートしたり、「へー」とか「ホー」とかいう程度の感想を付け加えて“己が意見”のように発信する時代になった。

こうして今、他人の一言、不用意な一言や悪意のある一言でも、あるいは明らかなニセ情報でさえも、面白ければリツイートされて爆発的に拡散することになる。そこで大人社会は、若者のこうした意見とも言えない軽くて不用意で危険なツイートを問題視する。さらには若者の語彙の乏しさ、表現力のなさを嘆くことにもなる。

そんなこんなで今、若者世代の活字離れが問題になっている。しかしこの傾向は若者世代に限らず、すでに中高年社会にも蔓延しつつあるのではないか。とすれば、字数制限140字以内で2~3行の“つぶやき”発言をするツイッターは時代の要請にマッチしていることにもなる。

戦後日本の教育は自己表現力の向上を目指してきた。その方向、その基本方針を誰も疑わなかったが、しかし本当にそれだけでよかったのだろうか。その結果がツイッター発言時代になっているのである。ツイッター現象にみられる一部の無責任で危険な自己表現は、自己表現力を重点的に鍛えた戦後教育の結果でもある。

その自己表現力重視に欠けていたのは人の話を聞く謙虚さであり、自らを省みる自制力・反省力ではないか。さらに、自己表現についての自制力・反省力は、自分の発言や他人の発言に使われる言葉の意味の正しい解釈・理解から生まれるはずだ。そのためには自己表現力の向上の前に他者の発する言葉の意味を正しく解釈し判断する力、つまり「聞く力」こそが大事ではないか。

聞く耳が大事なのは英語のリスニングだけではない。日本語のリスニング教育も考えてみてはどうだろうか。原点は幼児期にある。祖父母や親に昔話を聞いた子や絵本の読み聞かせをしてもらった子は、素直に聞く耳を育てられたはずだ。「一億総発言時代」が「聞く耳喪失時代」であっては困る。(2020・4・11 山崎義雄)

ババン時評 エモい時代のヤバい日本語

いま若い世代で「エモい」という言葉がはやっているという。ようやく「キモい」を知った程度の中高年者にはまだ耳慣れない「エモい」だが、こちらは気持ち悪いという意味の「キモい」や「ウザい」と違って、素直な感動や肯定的な感情・心情を表現する言葉らしい。肯定的に使うという点では「ヤバい」に近いとも言えそうだ。

読売新聞(3・28)の「国語力が危ない」シリーズに、「エモい」などの若者言葉の反乱に、語彙力が落ちる、思考が単純になる、コミュニケーション力が落ちるなどと警鐘を鳴らす識者の意見が寄せられている。私もそんな若者言葉の拡散を苦々しく思う一人だが、逆に、若者言葉を擁護する興味深い意見が紹介されていた。

すなわち、「エモいは、昔でいう『あわれ』だと思う。素晴らしいと感じた時も悲しい時も、感情を込めて表現できる」というのである。これは三省堂国語辞典の編集を手がける飯間浩明さんの意見である。そして飯間さんは、「いとあわれ」は今なら「超エモい」となると言う。

たしかに言われてみればそんな気がしないでもない。ものの「あわれ」も、いと「おかし」も、“大の大人”である中高年者でもまともに説明するのは難しいのだから、「エモい」など若者言葉が意味不明だなどと責めるわけにはいかないのかもしれない。

と言いながらも、やはり「エモい」は「ヤバい」のではないかと思う。ここでの「ヤバい」は本来の意味である危険だという意味のヤバいである。もともとの「ヤバい」は、もっぱら浮世の裏稼業で稼ぐヤクザとか良からぬ連中の使う隠語で、見つかりそうだ、捕まりそうだ、危険だ、といった意味の用語である。本来なら堅気の人間、若い娘などが、面白いものや感動的なものを見聞きしたり、うまいものを食って「ヤバい」とか「ヤバッ」などと使うべき言葉ではない。

やはり言葉本来の意味、言葉の素性を知って使うべきではないか。本来の意味と真逆になるような使い方を許しては、文書や文章もコミュニケーションも成り立たなくなる。言葉の乱用を軽視しては日本語が“ヤバい”ことになるのではないか。(2020・4・8 山崎義雄)