ババン時評 どこまで続く借金国家

言うまでもなく、庶民の家計も国の財政も借金ナシが望ましい。国の借金は恐れるに足らないというMMTなどの新説もあるが、国の財政も民の生計と同じで健全な生活者の常識で考えた方が良い、と先の小論、「借金国家の実用経済学」で“庶民感覚”の感想を述べた。

今回はその続きのような話だが、楽観的な財政再建策は問題だという話である。なにしろわが国はほぼ15年この方、財政改革に取り組みながら実態は悪化し続けているのだ。そして今、コロナ対策の大型補正予算で財政は緩みっぱなしである。コロナ後の財政締め直しが必要だ。

財政再建について菅首相は、経済成長と財政改革で2025年度の財政黒字化の見通しが立ったと言っているようだが、その根拠は、だいぶ楽観的な経済成長予測だから簡単には信じられない。つまり、経済成長を22年度は2%台に下がるもののそれを除いては3%を超える名目成長と見込んでいるのだ。しかし、報道による民間10社の今年度の経済予測は平均で1%成長だ。予測はいつも“官高民低”だが、3%と1%では差がありすぎる。

また内閣府によると、20年度の税収が過去最高の60・8兆円となり、今年4~6月の赤字幅は1月時点の試算から4・4兆円改善したものの、高い経済成長率が続いた場合でも、目標とする2025年度の黒字化は達成できず、2・9兆円の赤字になるとの厳しい試算を発表した。財政再建の道はなお厳しいことが改めて示された形だ。

いまや国と地方の長期債務残高は合計で1200兆円となり、国内総生産(GDP)の2倍を超えている。これを解消するのは容易なことではない。まずは国の基本的な経費を年々の税収で賄えるところまで改善しなければならない。いわゆるPB=プライマリー・バランスの黒字化が必要だ。

菅首相が願う3%超の名目経済成長率というのは、バブル期以来の高成長という楽観論だ。しかも成長の要因は、菅内閣の看板である脱炭素化やデジタル化だというが、いずれもこれからの仕事である。いつの時点でどれだけ実体経済に寄与するかは未知数だ。特に、デジタル化はともかくとして脱炭素化は25年までに効いてくる特効薬とは思えない。

菅首相の楽観論は財政再建への悪影響を増幅する。団塊世代が22年から後期高齢者の“団塊世代”になって社会保障費の膨張圧力になる。菅氏の続投となるかどうかは分からないが、新政府は、まずはコロナ対策で緩んだ財政の締め直しから初めて、地道な増収と歳出の一体改革の手立てを示すべきだろう。(2021・8・24 山崎義雄)

ババン時評 借金国家の実用経済学

日本は世界に冠たる借金国家である。だからコロナ克服が焦眉の急ではあるが、財政立て直し計画を無視するわけにもいかない。したがって菅政権も、歴代内閣の努力を受け継いで、財政再建をまじめに考えてはいる。しかし未だに金融緩和政策一本やりで物価目標2%の達成もできずにいる。

そして未だに使えそうな経済理論がない。足りなければ紙幣を増刷して使えという経済学者がいる。アベノミクスが取り入れた理論であるが、大胆な金融緩和と財政出動を説いたのが岩田規久男で、日銀副総裁を務めた。岩田は、政府財源が足りなければ日銀券とは別に政府の紙幣を発行しろとまで言った。この系統にはポール・クルーグマン浜田宏一伊藤元重らもいる。

ポール・クルーグマンは、デフレ克服のためには、お金をジャンジャン増刷してヘリコプターで国中にばら撒けといった。そして近年のMMT(現代通貨理論)がある。これは「ひどいインフレ(ハイパーインフレ)にならない限りどれだけ貨幣を増刷・供給しても問題ない」、仮に「ハイパーインフレになったら増税で回収すればよい」と説く。

要するにMMTは、国民が不安にならず世界が不信感を持たない限り、つまり日本国の信用がある限り、どんどん紙幣を増刷・供給していい。経済が大きくなるだけで、孫子(まごこ)にツケを回すなどという心配は無用だというわけだ。

一般の生活者としてはどんどん借金する生活は破綻するのが落ちだから、国の借金もよくないに決まっている、と考えるのが当然である。国は増税でチャラにするというが、一般生活者は自己破産か生活崩壊を免れない。実は国も、簡単に増税できるとは思えない。数パーセントの増税も内閣を揺るがすのである。

経済学の初歩で言えば、経営学の元祖・アダム・スミスは、個人の自由な活動に任せておけば利を求める行動がうまく作用して経済は成長する、つまり自由な市場にまかせろと言った。しかし、1世紀ほど後のジョン・メイナード・ケインズは、不況は需要の不足から起きるのだから、不況や失業を防ぐためには政府の財政投資を増やせと主張した。これに対してフリードリヒ・ハイエクは、政府は経済政策策定に必要な実体経済の情報を十分に取れないから政府主導の経済政策は失敗するとしてケインズに対抗した。

そんな具合で経済学はああだこうだと難しくなる。そもそも経済学は実体経済の“後追い分析”を踏まえた理論の体系化だから、最初に理論ありきの実体経済ではない。つまるところ、借金国家の実用経済学はない。借金国家の運営も財政再建の筋書きも、健全な生活者の常識を基本に考えるべきだという変哲もない結論になるのではないか。(2021・8・23 山崎義雄)

ババン時評 金メダルかじりは表現の自由か

あまりに大騒ぎし過ぎるのではないか。名古屋市河村たかし市長が、東京五輪の優勝選手の金メダルをかじったということで、ネットなどで厳しい非難を浴びている。おそらく河村氏は、市役所を訪れた東京五輪ソフトボールの後藤希友選手の金メダルを首にかけてもらって、思わずマスクをはずしてかじって見せたということだろう。河村氏の茶目っ気も災いしたか。

河村市長は、選手自身がかじってみるというよく見た光景を真似して見せただけだろうが、今はコロナ下の非常事態である。非難を受けて、大変なしくじりをしたと気づいた河村市長は即座に謝罪した。だが簡単には許されず、心ならずもパラリンピック行事への参加辞退をはじめ公の催しへの出席辞退も迫られ、市長としての公務まで制限される結果になった。

非難の急先鋒でモテモテなのが、芸能界の太田光や落語家の立川しらくだ。彼らは、河村市長のかじった金メダルを「表現の不自由展」に出品したらどうかとまで言っている。彼らは、河村氏の冗談交じりのメダルかじりが表現の自由問題のレベルだと本気で思っているのだろうか。メダルかじりは表現の自由でも創作の自由でもあり得ない。もちろん河村氏自身が「表現の自由だ」とケツをまくっているわけではない。

私は見ていなかったが、太田氏はレギュラーを務めるテレビ番組で、河村市長の金メダルかじりは「見ていても不快だ。表現の不自由展であれを展示したいって言ったら、どうやって河村さんは反対するんだろう」とコメントしたという。河村市長がかつて「表現の不自由展」に反対した際に「神聖なものを傷つけるなって反対していたけど、お前がやったんじゃないか」と皮肉ったとか。

河村氏が、かつて「神聖なもの」と言ったかどうかまでは知らないが、2年前に行われた国際芸術祭の「表現の不自由展」の折りに、慰安婦少女像や天皇の肖像を扱った作品の展示に、「市は大変な税金を使っている。こんなことをやるとは―」と驚いて中止を求めたことは確かである。ついでに言えば、当時の日本維新の会松井一郎代表も「税金を投入してやるべき展示会ではない。日本人をさげすみ陥れる展示だ」と発言した。しかし芸術祭のボス的立場だった大村秀章愛知県知事は「金は出しても表現内容に口は出さない」と言った。

右や左の極論が許されるのも表現の自由だが、他人の人格まで傷つけるような言動は許されない。無関係な表現の自由まで持ちだして河村氏の失敗を非難する太田・立川氏らの軽口が支持されることは嘆かわしい。これはまさに軽佻浮薄のネットやメディアの社会と、人の失敗を許さない不寛容な時代の縮図ではないか。(2021・8・13 山崎義雄)

ババン時評 コロナが支援する経済対策

コロナ下で国民は外出も控えて逼塞させられているのに、国の経済は回復している。回復のリード役は、世界の景気回復基調を背景として輸出を伸ばしている製造業だ。その一方で、コロナに痛打されているサービス関連業の業況悪化が景気の足を引っ張っている。その結果、20年度の個人消費需要は34兆円ほど落ち込むと見られ、それを補うために3度も補正予算が組まれた。

しかし、第1弾の需要刺激対策だった全国民への一人当たり10万円の一律給付は見事に失敗した。10万円は貯蓄に回され、足元の消費を刺激する効果は出なかった。補正予算が組まれる度にもう一度一律給付が欲しいという不心得な?声も少なくなかったが、政府は、サービス産業救済に方針を切り替えた。不況に苦しむサービス関連業者は、給付金を内部留保せずすぐ支出する。これは間違いなく足元の需要を刺激する。

経済のイロハだが、経済政策・景気対策には財政政策と金融政策がある。簡単に言えば前者は国が財政支出でカネを使うか、後者は日銀中心で民間に通貨を供給し、民間にカネを使わせるか、ということだ。もちろん両者をミックスする手も派生する。

これまでの“実験”で、後者の金融政策がまるで効かなかったことは、黒田日銀が長年やってきた超金融緩和政策が、物価目標2%アップをいまだ実現できないことで証明されている。残る経済政策・景気対策は財政政策だが、この頼みの綱が、国と地方の借金残高1200兆円が重石となってこれ以上の借金財政がはばかられることになる。

そして、国の借金財政は孫子に借財を残すのかという国民の不安があり、それを政策論争に使う野党の抵抗がある。自民党政権が掲げる財政健全化計画では、国と地方の基礎的財政収支(OB)は、政府が黒字化の目標とする2025年度ではまだ赤字が2・9兆円残り、目標達成は27年度にずれ込む見通しだという。次期衆院選に向けて野党の政府批判はいよいよ声高になるだろう。

ところが今、コロナ退治の名目による34兆円の財政予算に反対の声を上げることができない。いわばコロナが菅首相の経済政策の柱である経済成長を支えるという皮肉な幸運をもたらしたことになる。コロナによる大規模補正予算による財政支出が、財政再建無視の放漫財政として野党や国民の非難を浴びることもなく、その財政支出によって20年度の思わぬ税収増をもたらし、税収増によって財政健全化目標の前倒しまで可能になった。

しかし、コロナ禍の後には依然として少子高齢化社会保障、そして財政健全化の問題が以前にもまして厳しく待ち構えているのである。菅首相が続投するかどうかわからないが、コロナ後の自民党政権はコロナによる放漫財政から脱却して新たな経済・社会の姿を国民に示さなければならないだろう。(20201・8・8 山崎義雄)

ババン時評 成功するか中国軍人強化法

中国の習近平国家主席が「社会を挙げて軍人を尊敬せよ」と号令をかけ、将兵の地位向上のために、給与引き上げなどの待遇改善を行う新法を制定したという。目的は、軍の士気向上や優秀な人材確保だが、逆に言えば、習主席の悩みがそこにあるということだ。なにしろシナ海を制覇し、近々に台湾を盗ろうと目論む習主席にとって軍内部の弱体化は看過できない現実だ。

その新法「軍人地位・権益保障法」の目的は、「軍人に使命を果たすように励まし、国防の現代化を進める」ことであり、そのために、「軍人は社会全体が尊敬する職業だ」と持ち上げ、「軍人家庭の生活水準を保障する」と明記して、軍の士気向上や優秀な人材確保を図ろうというわけだ。特に「作戦に参加したり、厳しい環境の遠隔地や特殊任務に関わったりする軍人を優遇する」のも、シナ海制覇と台湾進攻作戦が習主席の頭にあるからだ。

新法制定の背景には、少子化が進んで軍人へのなり手が減少していることがある。その遠因は1975に始まった中国の人口抑制策「一人っ子政策」である。その後、近年に至って中国の少子高齢化が大問題となり、習主席は、2002年に条件付きで第2子を、さらに第3子まで認めたあげく、ついに2015年、「一人っ子政策」を廃止した。

一人っ子政策」が始まった当時、私は小雑誌に書いたり他でしゃべったりして、これからの中国軍は弱体化すると公言した。一人っ子では甘やかされ過保護で育てられることになり、彼らが軍人になれば軍全体の士気低下により、早晩、中国軍は弱体化すると思ったからである。しかしその後、中国軍人の劣化説?は聞かれず、説を裏付ける本格的な実証実験(戦争)も行われず、習政権になってからは、軍人劣化を補って余りある近代兵器の装備を進めて今日に至った。

実証実験(戦争)といえば、日清戦争(明治27~28年)当時、世界に冠たる中国北洋艦隊を日本の連合艦隊が撃破して欧州列強を瞠目させた。これで中国の潜在力を「眠れる獅子」と恐れていた西欧列強の恐怖心が消えて、中国の分捕り合戦と植民地化を始めた。これが、日本に対して中国が恨みを持つ大きな一因になったと言えよう。

当時、黄海海戦で敗れた中国北洋艦隊の隊員たちはアヘンでダメになっていたと言われていたが、近年になってその定説?は否定された。また私は、誰だったか著名な日本の将軍が、北洋艦隊旗艦(だったか)の艦上にズラッと洗濯物が干してあるのを見て、戦えば勝てると確信したという話を何かで読んだ覚えがあるが、記憶は定かでない。

ともあれ新法制定で、はたして習主席が望むように、中国共産軍に有為の若者がワンさと集まり、体力・気力に優れた軍人集団となるのかどうかは予断を許さない。優秀な軍人になったかどうかの実証実験だけは、やってもらいたくないものだ。(2021・3・4 山崎義雄)

ババン時評 「自己否定」と無常感

人間が死ぬとはどういうことか。哲学も宗教も文学でさえも永遠に解けない命題である。劇作家であり哲学者として知られた山崎正和さんが、最後の評論集『哲学漫想』を残して昨年(2020年8月)、86歳で亡くなった。業績は幅広いが、とりわけ論考を通じて人間に向ける慈悲の目、現実を無常と感じ取る「無常感」は冷徹だが温かい。

山崎さんは、人間の「身体」なるものを考察して、身体は、それ自体が一つの自然現象として、呼気と吸気、空腹と満腹、睡眠と覚醒の反復を繰り返す。そして身体は、皮膚で包まれ、一定の体重や体温を持つ。しかし「身体」はそれだけの個物なのか、例えば「眩しさ」や「喧しさ」は身体内外のどちらの現象なのかと問う。身体内外の境界や身体の外郭は不明瞭であり、空間的・時間的な身体の外延はさらに曖昧であるという。

身体の中心も見当たらず、身体・皮膚の内外、外郭も曖昧である上に、身体の働き・現象も不確実で、身体とは、ほとんど儚い存在だとしている。そして、「私」の事物性と現存在を考察し、「私」の存在の不確かさを確認し、自己否定に至り、要するに「私」とは本質的に「いわく言いがたいもの」であるとまで言う。さらには個物である身体は、外界から沁み込んで透過していくものの受容体であるとするなど、独特の身体思想を語る。

自己の存在否定で思い出したのは、たまたま恵送いただいた円覚寺派の小冊子「円覚」うらぼん号所載の、横田南嶺管長の「拝む心で生きる」話である。横田師は、禅の「公案」修行を20年間、そしてその修行を指導する師家を20数年続けている。修行時代は、公案の答えをもって師の部屋に「独参」し、叱られたり、否定されたり、竹篦(しっぺい)で打たれたりの修行を続けた。自己中心的に染みついた思い込みや考え方を取り除く「自己否定」の修行である。

そうした修行を20年続けて、ある時にふと、独参は師の室内に三拝して入り、師家を通して仏陀を礼拝するだけの礼拝の行なのだと気づいたという。これまでの公案修行はムダといえば大いなるムダ。しかし何も得るものはないと分かった時に、真に得たということだと般若経典に書かれているという。それに気づいて実に心が軽やかになった時、修行も終わりを告げていた。

話を戻すと、山崎さんが考える人間の身体は事物の「受容体」か、はたまた「濾過器」か。濾過されずに残った知識や経験は残存物かということである。その残存物さえ、日本的「無常感」の思想からすれば、意味がないということになるのか。そのあたりをどう考えて著者は人生を卒業したのであろうか。凡俗の徒は著者に問いたいところである。(2021・7・29 山崎義雄)