ババン時評 安部氏逝く 未熟な男の凶行

テレビの第一報に、一瞬、わが目も耳も疑った。昨日(78)、安倍晋三元首相(67)が、奈良で参院選に向けた街頭演説中に、中年男(41)の凶弾を受けて死亡した。ニュースは、国内だけでなく世界を震撼させた。許しがたいテロ、卑劣な凶行、無法な言論封殺など、犯行への怒りが瞬時にマスコミや巷で噴出した。そして最長の政権担当期間における安倍氏の偉大な業績が政財界をはじめ国内外の首脳、関係者によって語られた。

岸田首相は、怒りと涙をこらえて盟友の死を悼んだ。国民も思いを一つにした。しかし犯人への怒りは複雑である。この男には犯罪歴などもなく、地域でのトラブルもなく、学校時代の友人も事件の報に首をかしげるほど平凡な人間だったらしい。自衛隊3年の経歴も、ワケがあって脱落したのではなく、3年の任期付きで雇用される任期付護衛官だったという。演説の現場における警護のミスが大きな問題になった。だが、警護の警察官にさえ見とがめられないほど平凡な印象の男だったのではないか。

そして男は、安倍元首相の政治信条に「恨みはない」と話しているといい、一部報道によると、男は、ある宗教団体を恨んでいて、その団体のトップを狙いたかったが難しかったので、その団体と関係があると思う安倍元首相が来県することを自民党のホームページで見て、電車で現場に行ったという。こうなると、この度し難い出来損ないの半端な男の犯行に向けた、「許しがたいテロ、卑劣な凶行、無法な言論封殺」などとする、犯行への真っ当な怒りがむなしくなってくる思いがする。

許しがたいテロも、警察庁の定義では、広く恐怖又は不安を抱かせることによりその目的を達成することを意図して行われる政治上その他の主義主張に基づく暴力主義的破壊活動」である。こうしたテロ思想の片りんも今回の凶行にはみられない。無法な言論封殺も、「言論・表現の自由」への挑戦などという確信的な思想や意識とは無関係の犯行である。岸田首相は第一声で、民主主義の根幹である選挙運動の演説現場での凶行を非難したが、この男には理解できないだろう。

安倍元首相は、1993年の衆院初当選以来、20209月の安倍内閣総辞職で首相の座を下りまで、一貫して憲法改正への姿勢を変えなかった。そして今、言論の自由度を増して改憲論議をリードしてきた。当然、反改憲・反安倍の“口撃テロ”もヒートアップした。しかし安倍氏はたじろぐこともなく、攻撃側も銃弾にモノを言わせるようなことはなかった。その民主国家日本で、一人の不心得者、というよりアホな一人の中年男が、至宝の大政治家を無残にも葬り去ってしまった。

「倒れて後止む」の心境で、安保・改憲に取り組んでこられた安倍氏は享年67。あと20年やそこらは日本や世界をリードできたはずである。亡くなられた安倍氏のくやしさ、むなしさはいかばかりであろう。政治家暗殺の歴史にこの男の暴挙はどう刻まれるのだろう。このような低次元男の凶行を防ぐ手立てはあるのか。せめてその手立てを考えてもらわなければ安倍氏は浮かばれない。(202279 山崎義雄)

ババン時評 勝つことより負けないこと

太平洋戦争時に、知将・井上成美中将が提唱した「新軍備計画案」は、海軍主流派の大艦巨砲主義、艦隊決戦理論を批判した上での、新しい空軍、機動部隊中心の海軍再建案だったが、上層部に握りつぶされた(永井揚之助著『歴史と戦略』中公文庫)。井上は計画案で、「米国ニ敗レザル事ハ軍備ノ形態次第ニ依リ可能」だが、「米国ヲ破リ、彼ヲ屈服スル事ハ不可能ナリ」と喝破した。

つまり「勝つこと」と「負けないこと」は別だということで、今のウクライナがそれだ。戦後の朝鮮戦争ベトナム戦争アフガニスタンなどもパワーの弱い側が勝てないまでも負けない事例が増えていることでもわかる。ゲリラ側は負けなければ勝ちだが、外征軍たる大国は、勝たなければ負けだ。これを著者は、「非対称紛争理論」と名付ける。

ウクライナ戦争が長引いて勝敗の決着がつかないのはプーチンの誤算で、誤算の最初はプーチンがゼレンスキー大統領のウクライナをナメてかかったからである。やってみたら4カ月過ぎても勝敗の決着がつかないのは、米国、NATO、日本などがこれだけ本気でウクライナ支援を展開するとは、プ大統領がユメにも思わなかったからである。

このままではロシアの完勝もウクライナの完敗もない。とすれば、朝鮮戦争のような「休戦協定」で一時停戦に持ち込む以外にない。なにしろ、このウクライナ戦争は「非対称戦争」(先の「歴史と戦略」の「非対称紛争」を拝借した用語)なのである。さらに展開して戦略レベルで言えば、ロシアは「能動的征圧戦略」であり、ウクライナは「受動的防衛戦略」である。

さらに、戦術レベルで言えば、ロシアの場合は相手の領土内における「侵略戦術」であり、ウクライナにとっては自国内における「防戦戦術」である。ロシア本土を攻めないウクライナがロシアに勝利することはあり得ない。ロシアというよりプ大統領が敗北し、ウクライナが勝利するのはクーデターなどで、ロシア自身が内部の自浄作用で自壊するケース以外にない。

先のNATO首脳会談で、NATOの中長期的な行動指針となる「戦略概念」で、これまで「戦略的パートナー」としていたロシアの位置づけを一転させ、「最も重大で直接的な脅威」と明記した。さらに、軍事力で領土拡大を図るロシアへの対応として、有事の際に出動する即応部隊を現在の4万人規模から30万人以上に増員する方針を打ち出した。ロシアに対する強力なメッセージだ。

さらに自由主義陣営は一歩踏み込んで、例えばロシアが化学兵器核兵器を使ったら、自由主義陣営はロシアに対して、どういう報復措置を取るかなど、具体的な対応策と決意を示すべきではないか。それは、日本を囲む中国・北朝鮮に対しても強力な抑止効果を発揮することになると思われる。そして日本は「勝つこと」より「負けないこと」を真剣に考えるべきだ。(2022・7・4 山崎義雄)

ババン時評 ロシア上空で反戦ビラを撒け?

これは笑えない笑い話だ。ロシアからリトアニア経由でロシアの飛び地・カリーニンググラード(バルト海沿岸)に物資を運ぶ鉄道に、リトアニアが規制を掛けると発表したら、ロシアが最初に抗議した言い分が国際法違反だというもの。国際法違反! ロシアがそれを言うか? ウクライナ侵攻にはじまる人道無視の暴挙などロシアの国際法違反を並べ立てればきりがない。国連憲章は、国際法の順守を謳っているが、常任理事国のロシアは国連憲章国際法も意に介さないのかと思っていたら、都合のいい時は持ち出して使うらしい。

笑い話?のついでに言えば、身内のおばあちゃんが、ロシアの空で反戦ビラを撒いたらどうかと言うので笑ったが、まてよ、と考えさせられた。いうまでもなく反戦ビラは、昔の戦争でやった敵国の国民や兵士などの戦意を喪失させようというもの。あの宣伝ビラの空中散布を、情報戦の現代でやろうというのだからナンセンスではある。しかし、相手は情報統制のロシアだからこそビラ情報散布の効果があるかもしれない。情報戦の現代だからこそ、その情報の拡散と伝播スピード、そしてその効果は先の大戦時の比ではないかもしれない―。

なによりも、情報封じで真実を知らないロシア国民に、そして相当知っていても口をつぐんでいる上層部や軍人などに、戦況や最新データを提供する意味は大きいだろう。さらに言えば、低空飛行でモスクワの上空に足しげく?ビラを運ぶドローンなどは、ビラだけではなく爆弾も運べるゾ、ということでけっこうロシアへの威嚇にもなろう。こう考えると、一見時代遅れのビラ播きが、戦争終結への機運、あるいはひょっとしてクーデターなどへの“動機づけ”にならないともかぎらない。

ところで現在、作戦指導のためとはいえ、米陸軍最強のグリーンベレー部隊がウクライナに派遣されているという。グリーンベレーは、コッポラ監督の「地獄の黙示録」やシルベスター・スタローン主演の「ランボー」はじめ映画やドラマでもおなじみの特殊部隊であり、敵地潜入や後方撹乱、ゲリラ戦を得意とする。たった1人で通常兵士200人の働きをするなどと言われ、ベトナム戦争アフガニスタン内戦など、世界各国の紛争地で活躍してきた。このグリーンベレーウクライナに派遣されているということは、すでにアメリカもウクライナ戦争への直接参戦に一歩踏み込んでいると言える。

ウクライナ戦争では長期戦も予想され、すでにウクライナ側が奪回を諦めた地域も出始めていると言われる。この先、安易な停戦協定でプーチンに勝ちを譲るようなことがあれば、人類にとって取り返しのつかない禍根を残すことになるのは明らかだ。ポスト・ロシアには後門の狼・中国が控えている。プーチンがチラつかせる核の使用は、事実上独裁者一人の判断に委ねられており、使うかどうか予測は困難だろうが、それへの対処は民主国家群の政治家の叡智と勇気ある決断にかかっている。米国には、アフガンのように、事を途中で投げ出す悪いクセがあるが、ウクライナだけはNATOと共に死守してもらいたいものだ。(2022・6・26 山崎義雄)

ババン時評 「生活」を政争の具にするな

岸田首相は、記者会見(6・15)で、「断固として国民生活を守り抜く」と述べた。「断固として」立ち向かうテキは、いま、エネルギー関連から食料など生活必需品に広がっている物価値上がりである。首相は、現在の物価高は「ロシアによるもので、有事の価格高騰だ」とも述べた。プーチン露大統領のウクライナ侵攻が原因で世界に広がる物価高騰へのくやしさ?をにじませた発言だ。

なにしろわが国の物価は、長いこと上がらなかった。黒田東彦日銀総裁が就任以来、デフレ脱出を目指して「金融緩和政策」をとったが、消費者物価指数は今日までわずかにプラスに転じた程度で、効果のほどは今一つだった。9年来の「超金融緩和政策」で市中にジャブジャブとカネをつぎ込んだにもかかわらず、物価上昇2%の目標がいまだ達成されていないのだ。

その流れをいとも簡単に断ち切ったのがプーチンによるウクライナ戦争だ。しかも参院選(7・10)を前にして、である。問題は今後、このプーチン発の物価高にわが国がどう立ち向かうかということだが、各党の参院選向け公約が出そろい、それぞれの物価対策も明らかになってきた。しかし各党の個々の具体策は財源無視の大盤振る舞いで、その実現には疑問符のつくものが多い。

まず物価対策での与野党の違いは、与党が事業者向け対策を重視するのに対して野党は消費者支援を重視する姿勢である。与党の自民・公明は、ガソリン元売り業者への補助金支給や、賃上げした企業への税制優遇、資金繰り難の企業への融資など、事業者支援に重点を置く。これに対して野党の方は、消費減税を中心に消費者支援策を打ち上げた。

野党の主なところを見ると、立憲民主は、消費税の時限的な5%への引き下げ、賃貸住宅の家賃1万円補助、国民民主は一律10万円の「インフレ手当」支給、そして両党ともにガソリン税の暫定引き下げ。維新は、消費税を2年をめどに5パーセントに引き下げ、共産は、消費税を直ちに5パーセントに引き下げ、そして法人税率引き上げや富裕層への課税強化、などとなっている。

いずれも財源の裏付けを欠いたバラマキ政策である。消費税引き下げなど前例もなく実現可能性はほとんどないといっていい。第一、消費税に頼らないなら大幅歳入減をどう補填するのか。その説明もない消費税引き下げ公約は、公党としての信義を疑われるものではないか。おそらくどの政党も、まかり間違って政権の座に着いたら消費税引き下げなど二度と口にすることのない政策であろう。

唯一、立民は、「悪い物価高」をもたらす異次元の金融緩和策を見直す、といっている。現在、米の中央銀行であるFRBがインフレ(物価上昇)抑制のための利上げに走っている。しかし日銀は景気重視で従来の低金利政策を維持すると決めた(6・17)。ますますドル高円安が進行して、輸入物価が高騰する。目先の票集めにはならないだろうが、金融政策見直しは、プーチン発「悪い物価高」を退治するためにはぜひ必要な検討課題ではないか。(2022・6・21 山崎義雄)

ババン時評 黒田総裁、値上げはノーです

日銀の黒田東彦総裁は、任期満了まで残り1年を切った。2013年3月に就任し、在任日数が歴代最長となり、任期は来年4月8日まで。就任早々からアベノミクスに肩入れする黒田総裁の金融緩和政策に、生活者の視点から異を唱えてきた当方としては、ウクライナ戦争のあおりで物価上昇の進む今日、また一言、言いたいと思っていた矢先に、黒田総裁の失言問題が突発した。

黒田総裁は、都内における講演(6・6)で、「家計の値上げ許容度は高まっている」と発言した。食品などの値上げで消費者が困惑しているさ中の発言だから、マスコミやネットで集中砲火を浴び、国会でも問題にされて、「誤解を招いた表現だったということで申し訳ないと思っている」として発言を撤回し、謝罪に追い込まれた。

黒田氏は、「日本の家計の値上げ許容度も高まってきているのは、持続的な物価上昇の実現を目指す点から重要な変化」だと発言したと言うが、それは“論点ぼかし”であり、「物価上昇の実現」に目を向けさせても「値上げ許容」発言の意味が軽くなるわけではない。また、発言は「家計が自主的に値上げを受け入れているという趣旨ではなかった」とも釈明した。

もちろん自主的な「値上げ許容」などあろうはずがない。「むしろ家計としては、いわば苦渋の選択として、やむを得ず値上げを受け入れている状況だと思う」とも発言して理解のあるところを見せたようだが、自主的な値上げ許容どころか、押し付けられた値上げ許容ならさらに問題だろう。「誤解を招く発言だった」との謝罪も、この言葉には国民が誤解したという含意があり、不愉快な常とう句だ。

黒田氏は「スーパーでものを買ったこともある」程度で、日常の買い物はほとんど奥様に任せているというから、消費者がどれだけ迷いながら店頭で安いものを探しているか、生活者の目線にも心理にも思いが及ばないのだろう。SNS上にあふれた「#値上げ受け入れていません」というハッシュタグが話題になったのも当然だ。

ところが皮肉なことに、ウクライナ戦争の勃発で、原油や原材料、穀物などの価格が高騰し、ガソリンや食料品などさまざまな製品やサービスが値上がりしている。黒田総裁の任期切れ直前に物価目標2%達成が実現しそうな雲行きになってきたのである。しかし「好事、魔多し」、“棚ぼた”的物価上昇にうれしくなって黒田総裁の失言になったのかもしれないが、この先が心配だ。

黒田総裁は、目下の物価上昇は賃金上昇や需要の増加という望ましいかたちによるものでないとして、金融緩和継続の姿勢を崩していない。本当にそう考えるなら目下の物価上昇は悪い物価上昇で、行き過ぎればインフレ懸念も生じることになる。金融緩和一本やりの金融政策を見直すことが、黒田総裁最後の仕事になるのではないか。(2022・6・11 山崎義雄)

ババン時評 看板倒れの新しい資本主義

直近のツイッターにこう書き込んだ。『ばばん爺ダヨ。岸田首相の新資本主義。「最初は成長と配分」トカ言っていたのに、「配分」政策がないと批判されたら「最低賃金1000円」案が出てきたヨ。これって新資本主義かネ。その上「骨太」政策を頼りにし始めた。爺の「ババン時評」でも何度か批判したヨ。言葉による自縄自縛は岸田さんのために惜しいね』―。

当初、岸田首相は、「新しい資本主義」の狙いは「分配」重視だとして、立憲民主党の「成長」主張と対抗したが、そのうち「成長」と「分配」の両戦略にスタンスを変え、ここにきて「分配」欠落が指摘されるという迷走ぶりである。朝日新聞(6・1)は「新しい資本主義 分配重視の理念消えた」とし、『岸田首相はもう「新しい資本主義」の看板を下ろしてはどうか』とコキおろした。

すでに本欄では、『「新しい資本主義」の正体』(2022・11・10)で、首相のいう「成長と配分の好循環」は、新しくもなんともない資本主義の本道だと指摘した。さらに、『ババン時評 「新資本主義」は誇大広告』(3・9)では、当初、首相が掲げた「成長」政策、大学ファンドの運用、半導体立地促進、研究開発支援など、「分配」では、賃金格差の解消、「労働分配率」向上、子育て支援、コロナ最前線の看護や介護への報酬加算などは、従来からの継続的な政策課題だと指摘した。

何はともあれ、経済学理論は専門家に任せておけばいい。今、岸田内閣は、「新しい資本主義」と共に、毎年の経済・財政基本政策「骨太の方針」という2枚看板を掲げている。昨日(6月7日)発表された両者の計画・方針の「修正案」内容は、能力開発や・資産底上げなどによる「人への投資」が柱になるほか、科学技術開発や新興企業支援、デジタルなど、ほとんど方向を一にする。

今、「新しい資本主義」の最先端の理論は、「ステークホルダー資本主義」だ。これは、企業を取り巻くすべてのステークホルダー(利害関係者)に貢献することを目指す企業経営や経済のあり方を考えようという経済理論だ。しかしこの理論の中心である従業員重視や環境重視も、まったく新しい資本主義思想というわけではない。せいぜい「修正資本主義」とでも呼ぶべきものではないか。首相の「新しい資本主義」は「修正資本主義」以前だ。

おそらく首相の「新しい資本主義」の看板は、政権が交代すれば簡単に下ろされるだろう。これに「骨太方針」という似すぎて厄介な二枚看板を、この際、思い切って一本化するとか、自らの「新しい資本主義」政策を「骨太の方針」に任せるなど、堂々たる?理屈を構えて、方針転換を図った方が良いのではないか。(2022・6・8 山崎義雄)

 

ババン時評 歌は世につれ、世は歌につれ

今はあまり聞かれなくなったが、「歌は世につれ、世は歌につれ」という成句がある。若者が同世代の歌を聞いている分には、そんな感覚はないかもしれないが、後期高齢者ともなると、己の来し方と重ね、時代の流れの中で聞いた、そして歌った多くの歌の意味、味わいがいよいよ深くなり、「歌は世につれ、世は歌につれ」という感慨がますます強く、時に切なく胸に去来する。

たまたま読売新聞(5・3)の、「関心あり! 昭和の流行曲 若者に響く 趣のある歌詞」という記事が目についた。取材に当たった記者は、「昭和に流行した曲が時代を超えて若者の心をつかんでいる」という。ウエブで音楽サイトを運営する I さんは、「いろいろな解釈ができる行間を読む歌詞に趣を感じる」と言い、例えばペトロ&カプリシャスの「ジョニィへの伝言」は、「ジョニィに本当は何を伝えたいのか、聞く人によって解釈が分かれる」点を魅力として挙げる。

記事も指摘するように、昭和の時代は、専業の作詞家と作曲家が手がけた曲を、歌唱力のある歌手が歌うという作り方であった。それによって誰もが知る名曲が次々と生まれた時代だった。情景が浮かぶ歌詞や耳に残るイントロは、「過剰なまでに大衆性を意識した時代」のたまものだった。そして、「シンガー・ソングライターが増え、音楽ジャンルも細分化した現代においても、その完成度の高さに引かれる若者が多いのでは」と指摘する。

しかし、言わせてもらえば、記事のようにペトロ&カプリシャスや、岩崎宏美松田聖子などという比較的若い歌い手で昭和歌謡を代表されては、後期高齢者の当方としてはがっかりするのである。とりわけ演歌好きの当方としては、例えば戦後では、霧島昇 藤山一郎 田端義夫 二葉あき子 近江敏郎 伊藤久男 美空ひばり 島倉千代子 村田英雄 三波春夫 春日八郎 青木光一 小林旭 北島三郎 大川栄策、といった辺りを挙げてもらいたいのである。

それにしても歌謡曲は、長らく「はやり歌」として軽視されてきた。戦後の焼け跡で歌われ始めた「リンゴの唄」など多くの歌が、俗悪な流行歌としてけなされ(園部三郎『民衆音楽論』三一書房刊、古本)、低俗な「流行歌」とみなされて、(NHKあたりによって?)「歌謡曲」と言い換えられたりしながらも、大衆の心に沁み込んで「歌は世につれ、世は歌につれ」て、時代の流れをつくってきたのである。

また、「歌は世につれ」ても、「世は歌につれ」たりすることはないという反論もあるが、歌い継がれる歌は単なる「過去形」ではなく、未来に向かう予感を含む時代感覚を持っている。そして心に残る歌は、人生の陰影を色濃く滲ませながら多くの人の共感を得て時代の流れを形作っていく。それが歌の本質ではないだろうか。(2022・6・2 山崎義雄)