ババン時評 良い子 悪い子 普通の子

 

むかし“欽ちゃん”が言ったか、「良い子 悪い子 普通の子」という言葉が流行ったことがある。良い子を育てる道徳教育がいよいよ本格化する。すでに小学校では昨年から道徳が正式教科になっているが、今春からは中学校でも検定教科書を使うことになった。

そもそも道徳とは何であろう。簡単にいえば人が守るべき基本的な習慣・ルールと言えよう。広辞苑によると、道徳とは「人のふみ行うべき道。ある社会で、その成員の社会に対する、あるいは成員相互間の行為の善悪を判断する基準(中略)」として、ついでに? 夏目漱石、断片「道徳は習慣だ。強者の都合よきものが道徳の形にあらはれる」と説明している。「強者の都合よきもの―」とは、公正を保つべき権威ある広辞苑としては、漱石を引き合いに出して一歩踏み込んだ“偏見”とも取れるが、マア当たっていないこともない。

おもしろい話が朝日新聞(3・27)にある。日本文教出版の1年教科書は、図書全体が「家族愛・家族生活の充実」の扱いが不適切だとの意見がついたという。具体例で、教材の話「おかあさんのつくったぼうし」では、お母さんの働きについての発問で、「かぞくについておもっていること」という教科書の記述が問題になり、「だいすきなかぞくのためにがんばっていること」と修正し、検定をパスしたという。

道徳教育批判派には、戦前の「修身」をはじめとする思想統制の悪夢がある。だが、道徳は思想レベルの話ではない。江戸時代の子供の養育方針に「三つ心、六つ躾、九つ言葉、十二文(ふみ)、十五理(ことわり)」があったという。理屈をこねる15歳の前に、3歳心、6歳躾の習得が欠けているところに深刻な問題がある。イジメや犯罪を犯す悪い子は論外だが、良い子悪い子普通の子がいて健全な子供社会ではないか。

道徳教育の契機ともなったイジメの横行や世の中の乱れの根底に道徳観の喪失があることだけは確かだが、小学生どころか中学生にまで、“道徳”を教えなければならないところに病んだ社会の深刻さがある。慎重な道徳教育が必要だ。(2019・3・31 山崎義雄の「中高年ババンG」に拡大版あり)