ババン時評 「牛の歩み」と「人の歩み」

よく、人という字は2人で支え合ってできていると言われる。しかしよく見ると人という字には支える側と支えられる側がある。世の中には人に寄っかかって得をするヤツと、それを支える側に回るワリの悪いヤツがいる。しかしそう悪く取るよりは、人というのは、支えられたり支えたり、けっこう役割を交代しながら生きていて、それで社会が成り立っている―と取るべきかもしれない。

暮れから正月にかけてそんなことを考えていたら、何十年か前に著名な経営コンサルタントに教わった「十牛図」の教えを思い出した。そんな折にいま売れている仏教書、横田南嶺著『十牛図に学ぶ』(致知出版社)に出会った。副題に「真の自己を訪ねて」とある。著者は、臨済宗円覚寺派管長。禅書『十牛図(じゅうぎゅうず)』は、約900年前の中国・宋代に書かれたといわれるもので、10枚の絵と漢文・漢詩からなる。

人生終盤まで生きてきても、この教えの深いところには未だに理解が及ばないが、内容の大筋は、自分を見失った自分が、自分を探す旅に出て山に入り、牛の足跡を見つけ、そして牛を見つけ、暴れる牛を馴らして“人牛”一体となったところで我も牛も無になり、悟りを得て無の世界から有の世界へ還り、最後には山から町に下りて人々のために尽くすことになる―というストーリーである。

そしてたまたま菩提寺から恵送いただいた円覚寺派の機関誌『円覚』令和3年正月号に、横田南嶺師による『牛の歩み』と題する巻頭の論考があった。十牛図について、こう触れている。(感情を制御して整えることで)『「好きだ嫌いだ」「いい悪い」と好き勝手なことばかり言っていた自分を忘れるのです。十牛図では八番目に一円相という〇が出てきます。これは決して単なるカラッポではありません。私はこれを充実した無であると表現しています』―。

それは「1つのことに打ち込んで、我も人もなくなり、時間もどこにいるのかも忘れ去った心境であります。そうすると大いなる自己に目覚め、自分と外の世界とを隔てていた枠が外れるのです」。「そうなってこそ、はじめてこの現実の世界をありのままに見ることができます。そして最後に慈しみや思いやりの心にあふれて、周りの人の為に尽くしていきましょうという姿になって現れます。それが本来の自己であると説いてくれているのが十牛図です」-。

やはり禅の教えは難しい。だが、深いところは理屈(だけ)で理解するものではないのかもしれない。せめて正月三ケ日ぐらいはそんなことを考えてみよう。般若湯の力も借りながら―。(2021・1・1 山崎義雄)