ババン時評 「人生はカネじゃないさ」

「人生はカネじゃないさと茶をすする」。言い回しは少し違ったかもしれないが、先月の朝日川柳にあった一句である。ほろ苦い笑いと共感を誘う。もちろん日産ゴーン氏を詠んだもの。負け惜しみとも取れるが、人生を真面目に長くやってきた人間の「達観」でもある。

会社役員などで、1億円以上もらって報酬開示した者が、その制度が始まった2010年の290人から、昨2017年には700人へと大幅に増加したという。その間、ゴーン氏が1位の座を占めたのが3回だったとか。

話は変わるが、今注目されているのが安倍政権の売りとして官民ファンドで設立された産業革新投資機構(JIC)の高額報酬案問題である。これは、代表取締役4人に多額の固定報酬と短期業績報酬を支給し、さらに投資運用による利益の20%を成功報酬として支給するという案件。経産省もいったん認めたものの異論が噴出して白紙撤回し、JICと経産省の確執の行方が注目されている。

ゴーン氏の場合は、日産の経営立て直しの功績を足場に、経営を統制・監視するガバナンスの効かない上位に君臨して巨額報酬を我が物にした。極めて異例の高額所得者だ。そこには常識・良識などの精神作用が働いていない。

しかし、業績の向上による成功報酬や、持ち株の増加や株価の上昇による収入増で高額報酬・高額所得を得るのは、資本主義社会の基本原理だ。今後はますます高額所得者が増えていくだろう。そして貧富の差がますます拡大する。

「人生はカネじゃないさと茶をすする」達観の人ばかりではない。一般庶民の不平不満がつのれば社会の安定が損なわれる。日本はまだましな方だとは思うが、いま世界には“良心”の働かない、倫理や節度を欠くモラルハザードの風潮が蔓延しつつある。(2018・12・7 山崎義雄)

ババン時評 どうなる?日本の飲み水

 水道法改正案の成立で水道事業の民営化がスタートする。「水と安全はタダ」だという日本の“神話”は過去のものだ。今ではだれでも水と安全の確保は高くつくことを知っている。その事業を利潤追求の民間企業に任せるという。

世界には、安全な飲み水を得られない国が増えている。水資源の汚染や不衛生な生活用水も問題だが、それさえも飲めない国が増えている。近い将来、安全な飲み水を得られない人々は世界人口の2/3になるともいわれる。

そうした国や都市に、その災厄をもたらしている悪徳水道ビジネス事業者がいる。行政の側は、民営化で、下水処理施設の設備コスト、施設の維持・運営コスト、人的・経済的コストから免れると考えるが、地域独占営利企業による民営化はたちまち水道料金の値上げにつながり、市民生活を襲う。

いま読まれている本に「日本が売られる」(堤未果幻冬舎刊)がある。本書では、日本が売られる多くの品目?の、いのⅠ番に「水が売られる」という。本書によると、「日本の水道バーゲンセール」の口火を切ったのは、当時の麻生太郎副総理が、米国ワシントンのシンクタンクで、日本の水道はすべて「国営もしくは市営、町営でできていて、こういったものをすべて⋯⋯民営化します」と発言したのが始まりだという。

同書や新聞等によると、英国調査機関調べでは、2000年から2015年の間に、世界37カ国235都市が、民営化の結果、水道料金の高騰や水質悪化などでうまくいかず、再び公営に戻している。しかも莫大な請求書が突きつけられる。ベルリンの場合は、運営権を買い戻すために12・5億ユーロ(約1600億円)かかったという。日本の水道民営化が進めば、これを地方自治体が負担することになる。

同書から、信じがたい悲喜劇をひとつ紹介する。民営化して米資本のべクテル社に運営を委託したボリビアの例である。貧困地区の水道管工事は一切やってくれない。水道料金は月収の1/3。払えない住民が井戸を掘ると、「水源が同じだ」として料金を請求してくる。住民が公園の水飲み場を頼りにすると蛇口に「使用禁止」。バケツに雨水を溜めると、(理由は分からないが)1杯につき数セント(数円)徴収されるという。

さて、日本の水道は、これからどうなる?(2018・12・5 山崎義雄)

ババン時評 「ヘタレ」と「ポピュリズム」

 

一見、関係のなさそうな「ヘタレ」と「ポピュリズム」にいったいどんな関係があるのか。朝日新聞(12月2日)に、『「分を弁えろ」という論理』と題する「対談記事」が載った。記事中に、『ポピュリズム招く「ヘタレ」根性』という中見出しがあった。

記事の内容は、沖縄基地問題をめぐる政府の民意無視をはじめ、昨今の、いっけんばらばらないくつかの事象の底流に、「分を弁えろ」とか国家の意向を「甘受すべし」といった意識があるとする朝日らしい問題提起だ。語り手は杉田敦法政大教授と長谷川恭男早稲田大教授だが、杉田教授は朝日的な主張、長谷川教授はニュートラルなスタンスである。

しかし、その内容についてあれこれ書きたいわけではない。興味は、「ヘタレ根性」説である。長谷川教授は、『強力なリーダーが引っ張ってくれる組織体のほうがよほど居心地がいい。そんな「ヘタレ」根性がポピュリズムを引き寄せている』と言う。

さて、「ヘタレ」とはどういう意味か。「屁たれ」からきたとする説もある。だとするとこれは「糞ったれ」と同類語で、軽蔑、蔑視、悪口、負け惜しみなどの意思ないし気分を表現する俗語ということになる。しかしここは、俗に「へたる」とか「へたり」などというように、野菜などが「弱る」とか「ダメになったもの」、転じて「弱った人間」とか「情けない人間」をあらわす俗語と解釈するのがいいのではないか。

次いで、「ポピュリズム」は、一般大衆の願望や不安を利用して政治を行うことから、「大衆迎合主義」などと訳される。その一方で、無知蒙昧とまでは言わないものの一般大衆の自主性や判断力に疑いをもつ視点から「衆愚政治」などとも訳される。

したがって、長谷川教授の言う『ポピュリズム招く「ヘタレ」根性』を意訳ならぬ違訳させてもらえば、ある政治目的を達成するために大衆を扇動し利用するという「ポピュリズム政治」を招くのは、自主性も判断力ももたず時流に流される「ヘタレ根性」の一般大衆だということになる。“大衆蔑視”の臭いは気になるが、たしかに今、そのような事例が世界に蔓延しつつある。(2018・12・4 山崎義雄)

ババン時評 「人間のクズ」の正体

 

ある主婦に言わせると、野菜は、うまく利用すれば余すところなく料理できるという。しかし、使えない「野菜クズ」も出るのではないかと聞くと、たしかにそれはあると言い、その例として根菜類の「首」の部分を挙げる。大根の場合でいえば、菜っ葉の付け根の大根の首の部分はやはり切って捨てるしかないという。

「くず(「屑」」を辞書で引いてみたら、①切れはし。残り。かす。②用をなさないもの。役に立たないもの。であり、用例としては、紙くず。人間のくず。などがある、とのこと。しかし人間の場合は、①のような、切れはし、残り、かすはない。それもあるなどと言ったら人権問題、人道上の大問題になろう。だから、「人間のくず」という場合は、②の、用をなさないもの(者)か、役にたたないもの(者)を言うのであろう。

さらに、ネットで検索してみたら、多くの「人間のクズ」説明がある中で、「卑劣、残忍、薄情、無礼など、人としての道理や配慮を無視した言動や行動を平然とやってのける人間」という説明があった。たしかにこれは「人間のクズ」ではあるが、しかしこの手の人間は一般人のレベルや芸能界などにも“生息”する。これに比べて、公的な地位や社会的な地位のある政官財界のエライ人たちが、思わぬところで「人間のクズ」的本性を晒すことになる原因は別にある。

そういう人の、巧妙に隠してきた不正だけでなく、地位を利用して平然とやってきた不祥事が露呈する根幹には、異常な「出世欲」「名誉欲」「金銭欲」などの「強欲」が潜んでいることが多い。ただし昨今の例をみると、そうした「強欲」以外でもう一つ、高学歴だったりしながら思わぬところで無能ぶりがバレたりする気の毒な例もある。

こうなっては、大根の首のように切って取り除くしかない。ただし大根はエライ。首がなければ大根は育たない。首を切られてから大根はおいしい料理になる。(2018・12.1 同テーマの拡大版が山崎義雄の「ばばんG」にあり)

ババン時評 賜杯 貴景勝と 師 貴乃花

大相撲で、22歳の小結、貴景勝が初優勝した。まわしを取らせず素早く重い突っ張りで相手を圧倒する小気味よい相撲がフアンを魅了した。同時に、マスコミの“誘導”もあり、師 貴乃花の教えが貴景勝の口から語られ、彼の成長にとって師の教えがいかに大きかったか、改めて鮮明になった。

一夜明けるとマスコミやネットには、『「貴」の教え、実った賜杯』(朝日新聞11月26日)などと、「貴」礼賛ニュースが氾濫した。相撲協会側としては、いまさらマスコミで貴乃花の偉さが喧伝されることを、快く思わない向きもあったのではないか。

少し前だが、朝日新聞で、相撲関係の社説などを担当する西山良太郎記者が、貴乃花相撲協会辞任を記事にした(同紙10月19日)。「電撃退場が問う角界のいま」と題して解説し、辞職の原因について、協会側の主流派には、「組織としての包容力とバランス感覚」に問題があったとし、貴乃花には、「自説を見極める判断力と仲間を増やす意思疎通」に難があったとした。

要するに西山記者の判断は、協会側と貴乃花の双方に問題ありとするものだが、相撲界に密着する記者としては、協会側に注文を付けることは、なかなか言いにくいはずの一言であったろう。とはいえ、見方によっては、この西山分析は、「喧嘩両成敗」的な判断にも見える。

当時の、辞任にいたるまでの貴乃花の言動には、意固地なまでの一途さ・真剣さ・潔癖さが見えた。おそらくそうした姿勢は、貴景勝自身が言う、時として「弱い自分が出そうになる」ことを克服するように強く指導した貴乃花相撲の根本精神でもあったろう。問題はその、一見かたくなにも見える貴乃花の言動を受け入れるだけの、「組織としての包容力とバランス感覚」が、主流派側になかったことではないか。貴乃花の非より協会側のほうに、より大きな問題があったと言えるのではないか。

ともあれ、貴乃花の、相撲道への関与がこのまま断ち切られるのは相撲界の大きな損失だと思うが、まずは貴景勝の優勝を慶びたい。そして今後も、貴景勝には、「大物力士に立ち向かうには四股を踏め」と少年時代に教わったと言う貴乃花の教えを心の支えに、素早く重い突っ張りで着実に上位を、そして横綱を目指してもらいたいものだ。(2018・11・28 山崎義雄)

ババン時評 日産ゴーン氏とガバナンス

どこから日本企業の経営姿勢がおかしくなったのか。日産自ではゴーン前会長の独裁と“所得隠し”が世界の注目を浴びている。関連の三菱自動車も含め、多くの企業で製品検査データの改ざんなどの不祥事が続く。問題はガバナンスの欠陥だろうか。

要するに、企業内で起きる不正や不祥事が多発するのは、それを防ぐための内部統制の仕組み、管理・監督の仕組みである「コーポレート・ガバナンス」(企業統治)に問題があるからだろうか。不祥事を起こした企業の経営者もそれを反省して謝罪することが多い。日産の西川社長も今回、ガバナンス改革を言っている。しかし、もっともらしく聞こえるが、本当に問題は「ガバナンス」にあるのだろうか。

ありていに言えば、「ガバナンス」の実体は上が下を統治する制度である。いいかえれば上から下を締め付けようという仕組みである。しかしゴーン氏の場合は明らかに「ガバナンス」という制度の上に君臨していたのである。ゴーン氏にガバナンスが作用するはずがない。

一方の、検査データ改ざんの防止は、「統治」の概念による締め付けの対象ではない。「統治」の対象ではなく「品質管理」の対象だ。要するにガバナンスは、ゴーン氏もデータ改ざんも取り扱いの対象外であり、不正の温床を探り不正の根を断とうとする仕組みではないということである。

問題の根は「人間」であり「倫理」の欠如だ。経営陣が勇気をもって正論を主張できるか、組織内で事実を知るものが声を上げられるか、実情を知る現場の人間が上に言えるかどうかだ。ガバナンスなどという借り物の横文字に騙されてはいけない。(H30・11・27 山崎義雄)

ババン時評 日産ゴーン氏の「高転び」

 

俗に「高転びに転ぶ」と言う。日産の前会長ゴーン氏がその例だ。得意の絶頂から見事に?転落した。「高転び」なる言葉は、織田信長を評して安国寺恵瓊が「信長は高転びに転ぶであろう」と予見したというから、古くから言われた由緒正しい?用語である。その高転びの要件とは何か。

安国寺は、天正元年(1573年)の暮れ、何名かの武将に宛てた書状に、信長はいずれ「高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候」としたためたという。日産でも、役員陣や監査役はゴーン氏の不正を事前に知っていたはずだが、「高転び」まで予見していたご仁はいただろうか。

ただし、ゴーン氏は、会長職や代表権は失ったが、取締役としては残留するというから経営上の影響力はあなどれない。しかし人間としての信用力は完全に失墜したというべきだろう。したがって、経営陣に居残っても、マネジメント上のテクニカルな案件以外の、人間的な信頼性に関わる案件では、影響力を及ぼすことはできない、というよりほとんど無力になるのではないか。

ところで、「高転び」の要因は何か。安国寺は傲岸不遜な信長の言動に人間的な危うさを見たのだろう。安国寺の予見通り、信長は本能寺で幕を閉じる見事な高転び人生を演じた。

一般的に考えれば、高転びの3大要因は、「名誉欲」「金銭欲」「独占欲」ではないか。ゴーン氏の場合は言うまでもなく第1が「金銭欲」だった。第2が、カネも地位も権力も、ついでに世界各地の屋敷も欲しがる「独占欲」、第3が、日産とルノーの合併の先のトップまで狙う「名誉欲」ではないか。

ともあれ、一般的に言っても以上の3大要件を満たす努力をすれば、その先に見事な高転びが待っているということになる。(H30年11月24日 山崎義雄)