ババン時評 朝に目覚める幸せ

平成最後の春、お彼岸の季節が巡ってくる。禅宗系のある宗派の檀家向け小冊子を読んだ。凡俗で老骨の私を笑わせてくれたのは、その小冊子にあった今は亡き高僧のエピソードである。その話を披露してくれたのは、若いころ、その高僧の身の回りのお世話をしながら教えを受けたというお弟子の、人も知る現役の高僧である。

その現高僧によると、もと師の高僧は、毎朝目が覚めると床に座して何やらぶつぶつと唱えていたという。それはありがたい経典の言葉などではなく、どうやら「今日も目を醒まさせていただいてありがとう」という朝の目覚めへの感謝の言葉らしかったという。で、現高僧は、人はみな目が覚めるのが当たり前だと思って寝るが、眼が覚めるということは、実にありがたいことだというのである。

それを読んで不謹慎だが思わず笑ってしまった。笑ってしまったのは、これも失礼な物言いだが我が意を得たりと膝でも打つように高僧の思いに賛同したからである。私も、老境に至っていつのころからか毎晩眠りにつくときは、明日の朝は目覚めるだろうかという思いが必ず脳裡をよぎる。しかし、たぶん目覚めさせてもらえるだろうと信じて眠りにつく。そして、寝がけにあることをぶつくさと口にする。高僧の朝のぶつくさ(失礼)と凡俗の私のぶつくさと違うところは、こちらは「明日の朝はおいしいソバを食べるぞ」とか、「久しぶりにスパゲティを食べるぞ」などと、予定の朝食をぶつくさと口にして眠りにつくのである。高僧のそれは、目覚めさせてもらえた仏恩への感謝だろうが、こちらのぶつくさは食べ物に寝覚めの願いを託すのである。

たしかに朝を迎えて目覚めることはありがたいことだ。年寄りにとって就寝中の突然死は他人ごとではない。私の場合はさらに無呼吸睡眠も恐い。大いびきと無呼吸が進んだ重症の無呼吸睡眠患者になると、一般人の4倍以上が心筋梗塞脳卒中で死亡するという。おまけに男女比では男性の無呼吸死亡率は女性の2~3倍だという。

私は、どのような死を迎えようと、最後に「ありがとう」の一言を言おうと心に決めているのだが、突然死では言う暇もない。「ありがとう」の一言は、それを言えるわずかな時間に恵まれなければならない。その願いが叶えられるためにも、まずは朝の目覚めに恵まれなければならない。高僧に習って朝の目覚めに感謝しなければなるまい。(2019・3・21 山崎義雄)

ババン時評 オレオレ詐欺の“二次被害”

 

NHKテレビの「騙されない劇場」とかいう番組で、詐欺の手口を紹介し、「ひとつ(ストップか) 私はだまされない」と警告している。そういうオレオレ詐欺事件の報道を見ていると、アポ電(アポイント電話)詐欺の例などでよくもまあそんな大金を家に置くものだとあきれたり、息子の声も分からないのかとさげすむような気分になる。

アポ電詐欺は、息子や警察官などになりすまして電話をかけ、オレオレ詐欺的な問答で信用させ、自宅に現金があるかどうかを聞き出し、住所を確かめてから強盗に押し入るという荒っぽい手口である。アポ電詐欺犯にとってもっともおいしいカモは、大金を家に置いて一人で在宅しているオバアチャンである。次いで老夫婦だけが在宅する家である。難しい爺さんではなく少しボケかけている爺さんなら最高だ。

どんな形の詐欺にせよ、まずは人間の“情”に食い込むところから始まる。人間の感情は歳とともに脆くなるが、とりわけ身内に関する“情”は、老いてますます“たわいなく”なる。さらに子を思う母親となると父親よりその傾向が強く、したがって男親より圧倒的に女親の方が騙されやすいということになる。特に子育て一筋に生きてきた高齢の母親が騙されやすい。

問題は詐欺被害者のその後である。現金を略取され、心身的な危害を受けるというような直接的な“一次被害”だけに目が行きがちだが、これに加えて、詐欺にあった後の、連れ合いや本物の息子や家族からの非難・攻撃や、知人、友人、ご近所からの蔑視などという“二次被害”が大きいのではなかろうか。想像するだけでも、詐欺にかかったオバアチャンの情けなさ、辛さ、いたたまれなさは大変なものだろうと思う。時には死にたいと思うほどの自己嫌悪にも陥るのではないだろうか。そう考えると、気のいいオバアチャンや老親を放っておいた息子や家族にも責任の一端、あるいは責任の大半があるのではないか。

私のように払うカネのない者は安心だが、カネのある人は、例えば息子は老親に「俺が電話して、カネが必要だと言っても絶対に出すな」とか、娘などが、「○○ちゃん(息子の名前)からおカネが必要だと電話してきたら、必ず私に相談してネ」と言い聞かせておくなど、日ごろのケアをしておくことが大事だ。それは、親孝行をしなくなった今の時代の、せめてもの親孝行にもなろう。ついでにNHKのアナも、「ひとつ、私はだまされない」の後に「ふたつ、あなたはだまされる」と警告の一言を加えてみてはどうか。(2019・3・14 山崎義雄)

ババン時評 忖度+やっつけ+ご都合調査

 

安倍政権下で忖度(そんたく)が大流行りとなったが、本来はもっとも公正であるべき調査統計まで“忖度菌”に汚染され、さらには“やっつけ仕事”の調査や、自分たちに都合よく作る“ご都合調査”まで、嘆かわしい“汚染調査”が増えてきた。

いま国会論戦の的になっている厚労省の賃金統計も、次々に新事実が出てくる。今度は、基本の基本である調査方法を、調査員による直接調査から勝手に郵送調査に替えていたことや、調査の面倒な“水商売”を調査対象から外していたことなどがバレた。注目されるのは、この不正統計問題を検証した総務省が、不正の原因は厚労省内の「遵法(じゅんぽう)意識の欠如」と「事なかれ主義の蔓延」だと結論付けたことだ。

しかし、順法精神の欠如は指摘どおりだろうが、「事なかれ主義」とはどういうことか、にわかには理解しがたい指摘だ。この総務省の検証は、厚労省の調査担当者延べ20人を対象に聞き取りしたもの。それによると、賃金統計の調査方法変更について、担当者が重要なことと思っていなかった。現在の幹部レベルにもこれが不正だという認識が薄かった。関係者間のコミュニケーションが不足していた。などと指摘しているが、これを「事なかれ主義」と呼ぶのはどこか違和感がある。それよりも「やっつけ仕事」とでも言った方が分かりやすいのではないか。総務省の聞き取り対象「延べ20人」というのも「やっつけ仕事」ではないか。皮肉にも総務省厚労省の間にこそ「事なかれ主義」のにおいがある。

このほど明らかになった文化庁による自民党への「説明資料」もそんな例であろう。報道によると、著作権法改正案を審議する自民党に出した文化庁の審議会報告では、自民党の意向を後押しし、自分たちの法案成立への期待も込めて、賛成意見を水増しし、慎重意見を省略して報告したという。おかしなポイントの最たるものは、「積極的な意見」7つのうち、「学者」の意見とされた4つは、一人の発言を4つに分割したものだったという。文化庁の説明は「1人の説明にたくさんのポイントがあったということだ」とする。呆れて開いた口がふさがらないとはこのことだ。

中央官庁の仕事ぶりが“忖度”から“やっつけ”“ご都合主義”に変化した底流にはモラルの低下があるが、それには低俗な政治の動きに振り回される官僚の無力感やプライドの喪失が作用しているのかも。汚染菌をまき散らす安倍自民党政権の猛省が待たれる。(2019・3・8 山崎義雄)

ババン時評 巧言令色鮮し仁

 

安倍首相は、育ちの良さからくるプライドで態度が高慢に見える。国会答弁でも負けん気でひと言多くなる。言い過ぎてもなかなか素直に謝らない。「巧言令色鮮(すくな)し仁」という。安倍首相がそうだとまでは言わないが、多弁・雄弁で逆ねじを食わせるような首相の答弁はよろしくない。

安倍首相は、よく「丁寧に説明して理解を得る」とか「真摯に受け止める」とか言うが、安倍首相のイメージに似つかわしくないそいう空疎な発言に鼻白んでいる国民は少なくない。モリカケ問題における自分と妻の弁護主張でも、先の自衛隊かわいそう的な擁護論でも、勤労統計不正への関与否定でも、残念ながら安倍首相の発言には誠実みや真実みが欠けている。

この国会で安倍首相は、第1次安倍政権下で行われた12年前の参院選に触れ、「わが党の敗北で政治は安定を失い、悪夢のような民主党政権が誕生した。あの時代に戻すわけにはいかない」と発言して物議をかもした。

安倍首相にとって、自民党にとっては「悪夢のような民主党政権」だったであろうことは分からなくはないが、それは内に秘める反省材料であり、公言すべきことではない。多弁ゆえのよけいな発言だったのなら柔軟に撤回・謝罪すべきだが、安倍首相は決してそれをやらない。

この安倍首相の「悪夢のような民主党政権」発言について、同じ自民党石破茂元幹事長は「過去の政権を引き合いに自分たちが正しいと主張するやり方は危ない」と批判した。多くの国民は石破氏の言う方が正しいと思うはずだ。

なにより、悪夢のようだと安倍首相が公言する民主党政権を選んだのは国民だ。その政権を表面きって非難するのは「天に向かって唾をする」ようなもので、たちまちわが身に降りかかってくる。反省して褌を締め直さなければ、今度の参院選にご用心ということになる。(2019・3・3 山崎義雄)

ババン時評 100年前の朝鮮独立運動

 

日本統治下の朝鮮で独立運動が起きた1919年3月1日の「3・1独立運動」から今年で100年を迎える。その節目に、植民地支配からの解放を求め、「良心はわれらとともにある」と訴えた一枚の「独立宣言書」が長崎県の個人宅から見つかった(朝日2・26)。これは韓国にも8枚ほどしか現存しない貴重な資料だという。

当時、保持していれば憲兵につかまるという危険きわまりないこの資料を秘匿していたのは、現在、長崎在住の佐藤さんの祖父。その祖父は100前の平壌で陶器商を営んでいた。朝鮮語を話し、朝鮮語で読み書きもでき、朝鮮の人々を差別することのなかった人だという。いざこざの堪えない現下の日韓関係を思えば、日本統治下の朝鮮に、こんな日本人がいたことが誇らしい。この話、いまの韓国の人たちにもぜひ知ってほしいものだ。

さて文在寅韓国大統領は、3月1日に行った「三・一独立運動」の100周年記念式典での演説では、昨年の厳しい対日批判から一転、現在の日本を直接批判せず協力強化の方針を明言した。悪化が続く日韓関係を考慮し、対日刺激を避けたとみられる(産経3/1)。すなわち、慰安婦や徴用工の問題も、独島(日本の竹島)の名も口にせず、「被害者(元慰安婦や元徴用工)らの苦痛を癒やしたとき、韓日は真の友人になる」と日本に協力を暗に求め、「朝鮮半島の平和のために日本との協力を強化する」と宣言したという。

先ごろ、韓国国会議長の文喜相(ムン・ヒサン)とかいうご仁が、元慰安婦への呆れた天皇謝罪要求で日本人の神経を逆なでしておいて「韓日両国間で不必要な論争を望んでもおらず、起きてもいけない」と言った。そのお説をかりれば、不必要な論争を繰り返してはいけないのだが、そもそも「三・一独立運動」の源流は、日本からの独立ではなく、清(大清帝国と自称)の冊封(さくほう)体制からの脱却を目指した運動だ。後に日清戦争により日本が清に勝利し、下関条約で清に李氏朝鮮の独立を認めさせたことで、李氏朝鮮は清の支配から解放され、自主独立国家となった。ソウルの「独立門」は大清帝国からの独立を祝して後年、建立されたものだという。

要するに勘違いや逆恨みをしないで、未来志向の日韓関係を築く努力をすべきだ。冗談に、約束は破るためにあるというが、それを地でいくように日本との合意や約束事を破り続けるのでは、近ごろの日本のように韓国を相手にしなくなったり無視したりするようになる。解決のカギは韓国側にある。(2019・3・1 山崎義雄)

ババン時評 国防は自治の範囲を超える

 

沖縄県民は、今回の県民投票で米軍普天間飛行場移設にともなう辺野古埋め立てに「ノー」という答えを出した。投票の翌日(2月15日)、その結果を安倍首相は「真摯に受け止める」としながらも埋め立て工事を続け、改めて移設の必要性を主張した。新聞各紙も一斉に報道したが、社説の色合いは鮮明だ。

沖縄県民の意向尊重を唱える朝日社説は、「法的拘束力はないとはいえ、政府は今度こそ、県民の意見に真摯に耳を傾けねばならない」とする。毎日社説は、「政府はただちに埋め立てをやめ、沖縄県と真摯に解決策を話し合うべきだ」として、「国の専権事項」という主張は、基地の立地に自治体が異議を申し立てる権利を否定する暴論だとする。

朝日・毎日とは逆の読売社説は、米軍施設の移設先は、日本を取り巻く安全保障環境や米軍の運用実態、沖縄の基地負担軽減を総合的に勘案して決めざるを得ない。「県民投票で是非を問うのはなじまない」とする。同じく産経社説は、「投票結果は極めて残念である」と言い、「普天間飛行場の危険性」が残り、中国などの脅威から日本を守り、抑止力を保てないとする。日経社説は、緊急避難的な措置としての県内移設はやむを得ない。白紙から検討し直すのは現実的ではないとする。

各紙社説の提言をみると、「自分たちのまちで、同じような問題が持ち上がり、政府が同じような振る舞いをしたら、自分はどうするか。そんな視点で辺野古問題を考えてみるのも、ひとつの方法だろう」(朝日)と言う意見もあるが、それをやってみて、基地受け入れ賛成という自治体が出てくるとは思えない。

「外交・安全保障政策は政府の専管事項であり、国民全体の問題だ。県民の直接の民意だけで左右することはできない」(産経)というのは当然だ。日本は住民参加の直接民主主義ではない。代議制の間接民主主義の国だ。その意味で、「移設容認を決めた仲井真弘多元知事は、当選後に移設容認に変節した」(毎日)とする批判も見当外れだ。憲法には「地方自治の原則」が明記されている(朝日)というが、国防が地方自治の範囲を超えるのは自明の理ではないか。(2019・2・27 山崎義雄)

ババン時評 小さな幸せ“チラシ”で買い物

 

本当の幸せとは何だろう。幸せ感(幸せ観)は人によって違うが、「先立つものはカネ」などとも言い、相当程度まで幸せもカネであがなえそうだ。以前、「人生はカネじゃないさと茶をすする」(朝日川柳)という一句を引用したことがある。元日産のゴーン氏を詠んだものだが、この一句は、負け惜しみだけではない歳の功による「達観」でもある。

先ごろ、ご高齢の知人が心臓発作で亡くなった。遺産は20億円ともいわれる。以前、この人に聞いた奥様のケガの話が忘れられない。その奥様は、毎日、新聞の折り込み広告、いわゆる“チラシ”を丹念に見て、日々の食材を買いに出かけるのだという。

聞かされた話は、その日はいつもより遠いスーパーまで自転車で出かけた奥様が、買い物かごを一杯にした帰りの坂道で転倒し、膝にケガを負ったという。で、「遠くまで出かけて大ケガをして本当に可哀想だ」と言うのである。いたく同情すべきところだが、大金持ちのお気の毒なケガへの返事に戸惑った覚えがある。

チラシの買い物でもうひとつ、高齢の友人夫婦がチラシをみてデパートに買い物に出かけた。奥さんは買い物を物色し、友人はエレベータ前の椅子で休んでいた。しばらくして奥さんが出てきて、「これ、どうかしら」と店舗スペースから持ち出した食器洗いに使うスポンジを友人に見せた。木の葉型の珍しいスポンジだった。彼が「オイオイ、持ち逃げと間違われるぞ」と言うと、奥さんは、店員に断ってきたという。

奥さんはまた店に戻ったが、今度はなかなか出てこないので、彼が店内に行く。買い物が終わって2人が店を出ようとした時、女店員がニコニコしながら寄ってきて、「よかったですね」と声をかけてきた。友人は、「食器洗いのスポンジを使うのはオレだと(店員に)見破られた」とボヤくのである。日常の小さな幸せではないか。

私の好きな句に「焚くほどは風が持ちくる落ち葉かな」という一句がある。今は戸外で焚火などできないが、それができた良き時代の句で、焚火をするほどの落ち葉、そして焼き芋を焼く程度の落ち葉は風が運んできてくれるという、実に悠々とした心境である。「人生はカネじゃないさ」と生きたいものである。(2019・2・23 山崎義雄)