ババン時評 戦地の友情 世代を超えて

 

戦後74回目の夏である。「戦地の友情 世代超え 日英軍人亡き後 続く手紙の交流」の見出しで報じる記事が読売新聞(8・8)に載った。記事の主人公は、先の大戦時、ビルマ(現ミャンマー)で敗戦を迎え、イギリス軍の捕虜となった園田貞二さんと、イギリス軍側の捕虜係だったフランク・レノルズさんだ。以下はその記事についての、私見による抄訳・意訳・寸感である。

レノルズさんは、靴も軍服もボロボロの姿で投降してきた園田さんに毅然とした姿勢を見た。そんな園田さんに、水やせっけんを用意し、衣服を与えた。園田さんは捕虜生活の中で絵を描いた。ある時、黄色の絵の具がなくて困っていた園田さんに、レノルズさんは同じ色の抗マラリア薬を提供してくれた上に、潰して色づけ出来るようにする作業まで手伝ってくれた。

園田さんは1年5カ月の後、解放されて帰国した。別れの折りに、保管されていた大事な軍刀をレノルズさんに贈呈するよう手配して去った。それから19年ほど後、レノルズさんは英国日本大使館を通じて園田さんの消息を確かめ、最初の手紙を書いた。そして刀をお返ししたいと告げた。

すると、美しい筆記体の英文で園田さんからの丁寧な返事が届いた。内容は、捕虜拘留中のレノルズさんの優しさに深く感謝するとともに、こう書かれていた。「刀は友情と平和の記憶と共に持っていてください。私たちは友情と世界平和を耕すため、刀を鋤(すき)の刃先に打ち直せるでしょう」―。

話は飛ぶが、ビルマの捕虜体験者で元京大名誉教授の故会田雄次さんは自著「アーロン収容所」で、紳士の国イギリスの兵士とも思えない陰湿な捕虜いじめや英兵の無学ぶりを描いた。逆に、大岡正平さんの「俘虜記」では、収容されたレイテ米軍基地の俘虜病院を舞台に、配膳係に選ばれた日本人捕虜の粗暴ぶりなどに対比して、陽気で大らかな米兵が好意的に描かれる。

凡俗・低俗・無学の人間は国を問わずどこにでもゴマンといる。とりわけ泥沼の戦場では品性が劣化するのが通例だろう。それだけに読売記事のように、偶然にも気品のある人格、得難い個性が遭遇する奇縁は感動的だ。このような話は両国それぞれの国民をホッと安心させてくれる。そして今も滋賀県とロンドンに住む両家の息子や孫たちが、クリスマスカードや写真などを送り合って交流を続けているという。(2019・8・14 山崎義雄)

ババン時評 「敗レザル軍備」の構築を

 

イラクやシリアで、IS(イスラム国)が息を吹き返しつつあるという米国の報告書内容が報じられた。トランプ大統領が春に、オレの力でイスラムを片付けたと吹いたばかりだったが、やはりトランプという“一過性”の危ない大統領が一代でISを屈服させるのはムリだったということだろう。

今年は74回目の「敗戦記念日」となった。太平洋戦争のスターは山本五十六だが、井上成美海軍中将は山本を凌ぐ名将として玄人スジに名が高い。井上が提案した「新軍備計画案」は、海軍主流派の大艦巨砲主義と艦隊決戦理論を批判し、新しい空軍、機動部隊中心の海軍づくりを具申したものだったが、迷惑視する主流派によって握りつぶされた。

大事なのは、井上がこの計画案で、「米国ニ敗レザル事ハ軍備ノ形態次第ニ依リ可能」だが、「米国ヲ破リ、彼ヲ屈服スル事ハ不可能ナリ」と断じたことだ。つまりは新しい空軍、機動部隊中心の建軍による、「敗れざる」新軍備の必要性を提唱するとともに、今のままの大艦巨砲主義と艦隊決戦戦略で米国を屈服させることは不可能だと喝破したのだ。その慧眼には驚かされる。

この話を、国際政治学者の故永井陽之助さんは著書「歴史と戦略」(中公文庫)で引用し、今まさに井上中将が言ったような世界状況になっていると指摘する。すなわち、「勝つこと」と「負けないこと」は別だとして、戦後の朝鮮戦争ベトナム戦争アフガニスタンなどもパワーの弱い側が勝てないまでも負けない事例が増えていると言う。そして、ゲリラ側は負けなければ勝ちだが、外征軍たる大国は、勝たなければ負けだとも言い、これを永井さんは、「非対称紛争理論」と名付けている。

樋口陽一 小林 節 『「憲法改正」の真実』(集英社新書)では、「アメリカが始めてまともに終わった戦争はない」と言い、大戦後に起きたベトナムアフガニスタンイラクなどでもアメリカは結局動乱を拡大させたと言い、「アメリカが勝った戦争はない」と言っている。

私も何度か素人談義で、「勝てないまでも負けない軍備を」と書いているが、専守防衛に徹する日本の構えはそれしかない。80年近くも昔の井上中将による教え、「米国ニ敗レザル事ハ軍備ノ形態次第ニ依リ可能」を再認識し、米国は今かけがえのない同盟国だが、代わって日本を取り囲む危ない国々に対して「敗レザル軍備」を構築すべきだろう。(2019・8・10 山崎義雄)

ババン時評 文在寅“怒り政策”の持続性

 

よくもまあ、次から次へと日韓の火ダネが尽きないものだ。今度は文韓国大統領が、日本の対韓輸出制限を批判して「盗人猛々しい」と発言したとして日本側の怒りに火をつけた。大騒ぎになる少し前に、漫然とテレビを見ていたら、座談の中であるジャーナリストが、「賊反荷杖(チョクパンハジャン)」という四字熟語の原義は、「ムチ打たれるべき賊がムチを持つこと」だと話すのを聞いた。

そこで、ああナルホドと合点がいき、盗人云々の“翻訳”はまずかったのではないかと気がついた。どうやらこの韓国熟語は、「加害者が居直る」というような意味で使われるものらしい。とはいえ、「加害者が居直る」という意味でも決して穏やかならざるものであり、韓国特有の歴史的偏見で日本を侮蔑しているということに変りはない。

ところが今度は逆に韓国側が、日本のマスコミが一斉に盗人云々と報道したのはおかしいとか、日本は大本営発表のように報道管制を敷いているなどと怒っているようだ。韓国人の怒り方はどこに“跳躍”するか分からない。大本営まで出てくる。いつも度を越して過激だ。

この自己主張の激しい韓国人の特性は、高句麗をはじめ歴史的に中国への朝貢国だった韓国が中国から学んだものかもしれない。たとえば孫子の兵法が教える“詭道”的な自己中心の論理と弁舌を操る中国から学んで身に着けたものではないか。その背景には、中国に対する劣等感と同時に中国文化を学んで日本の上位に立つ“小中華”としての誇り、などという屈折した心理もありそうだ。

ともあれ日本は、7月に対韓輸出規制を始めたが、8月には半導体材料の一部について、問題ないと判断した韓国企業に向けて、初の輸出許可を出した。これに対して韓国は「不透明性がある」などとして評価せず、相も変わらず「優遇措置」(元のホワイト国)からの韓国除外の撤回を主張している。依然として関係改善の糸口は見えない。

しかし日本はこれからも淡々と第2弾、3弾と輸出許可を繰り出すだろう。それにつれて徐々に韓国内の保守派や“無党派層”の文政権批判の声も高まるだろう。その時、国内外に向けて大げさに騒ぎ立ててきた文大統領の“怒り政策”がどうなるか。次の大統領選挙に向けてどこまで“怒り政策”による支持率維持を持続できるのか。これは案外、見ものではないだろうか。(2019・8・9 山崎義雄)

ババン時評 れいわ新撰組の教訓

 

先の参院選では、「れいわ新撰組」から出馬した身体の不自由なお二人、舩後・木村両議員が誕生した。だが「おめでとう」だけでは済まない違和感がある。お二人の国会通勤?や議員活動中における介助費用を、当面の間、参議院が負担するとの決定には批判の声も上がった。いわく、選出した政党が出せ、自分で負担しろ、と言った具合だ。

現在の介護制度では、身障者が、通勤や仕事中に必要とする介護サービスを受けることはできない。それをやってヘルパーさんを雇うには、その費用を自前で賄うか雇用主に出してもらうことになっている。そこで、れいわ新撰組(以下「れいわ」)の山本太郎代表や舩後・木村両議員は「障碍者は働くなということでしょうか」と訴え、障碍者の就労と介助の制度改革を目指している。

山本代表は、両議員への介護サービスを参議院が負担するのは当然だとする。しかし、介助制度の改革は、これからの議員活動を通じて実現を目指すべき課題ではないか。制度改革を実現させる前に、暫定的にしろ介助の“恩恵”を参議院から、つまりは税金から受けるのは問題だろう。

また山本代表は、両議員を「寝たきり界のトップランナー」と語り、「生産性で人間をはかる世の中に挑戦し、国会論戦をしてもらいたい」とも語っている。ぜひ有意義な国会論戦を展開してもらいたい。ただし、国会議員とりわけ参院議員の役割は、一地域や特定組織、特定案件のために働くことではない。参議院議員本来の役割は、衆議院の決議を経て回ってくる法律、予算、条約などの案件を、公正中立の立場でチェックし、審議することだ。

参院議員の立候補は30歳以上と衆院議員の25歳を上回るのも、一定の知識や経験が必要だからだ。本来、知識や経験の乏しい立候補者が当選することは好ましいことではない。これは身障者を特定して言っているのではない。近年、マスコミを賑わすおかしな議員が増えているからだ。

山本代表は、「れいわ」が政党要件を満たしていないとして、マスコミが選挙運動中の「れいわ」を取り上げてくれなかったが、それがなかったら大変な“れいわ旋風”が起きたはずだと言う。しかし、マスコミ受けで大型の“れいわ旋風”を起こし、それによって当選議員を増やそうとするのは、トランプを生んだ米国やEU離脱を決めた英国のような、浮かれ選挙民と危ない政治風土を助長する恐れがある。(2019.8.7 山崎義雄)

ババン時評 日韓請求権協定は無効?

 

韓国の話はうんざりだと思いながら、また韓国のことを書いてしまう。白眞勲氏(韓国の血を引く日本の元内閣府副大臣)がネットで言っている。「徴用工については日韓基本条約(1965年)の一環で解決済みです。基本条約を結んだ際、韓国は日本に対して、韓国政府が個人に賠償すると言っていたはずです。(中略) これは韓国政府が答えを出すべき問題です」

このほど外務省は、1965年の日韓請求権協定に関する交渉記録を公表した。これは、徴用工問題の発端となった韓国大法院(最高裁)の判決に対する反論だ。そして、韓国が、この度の日本による対韓輸出規制を徴用工問題への報復措置だと激高しているからだ。日本は輸出規制のスジ論を言っているが、その背景に徴用工問題があるのは、韓国の指摘通りだろう。

ただし韓国が、輸出規制のウラに徴用工問題があると認めるならば、なぜいままで徴用工問題にまじめに対応しなかったのか。輸出規制に慌てるのは滑稽だ。その上、助けを求めて米国参りのロビー活動をやり、場違いの外交舞台で反日主張を繰り返すのは度を越している。

今回公表の日韓交渉記録では、徴用工への「未収金、補償金、その他の請求権」に基づく韓国側の弁済請求を日本がすべて認めた。さらに韓国は、徴用工の「精神的、肉体的苦痛への補償」(要するに慰謝料)を要求し、日本側の「個人に対して支払って欲しいということか」との問いに、韓国側が「国として請求して、国内での支払いは国内措置として必要な範囲内でとる」と答えている。

ところが韓国大法院の判決は、「慰謝料請求権が請求権協定の適用対象に含まれていると見なすことはできない」というもので、理由?は、日本による朝鮮半島支配の性格について日韓合意ができていなかったということらしい。いわば日韓協定の全面否定であり「国際法違反」の判決だ。

先の白眞勲氏の言葉を結論に拝借したい。「請求権協定などによって日本はおカネを出しています(3億ドルの無償供与と海外経済協力基金による2億ドルの貸し付け)。それだけではありません。たとえばソウル大学病院の子ども病棟は日本が支援しました。あるいは浦項総合製鉄も新日鉄が、現代自動車は三菱が支援しました。(中略)そのことを今の韓国の若い人たちはどこまで知っているのだろうか、と思います」―。(2019・8・6 山崎義雄)

ババン時評 日本は韓国を知らな過ぎ?

 

韓国メディアは、日本が韓国の予想外に強い反応に驚いているとか反省の声も出ていると報じている。例えば『日本国内では今回の輸出規制について、「韓国に対する理解度が足りない人々を中心に推進されたため、韓国内でどのような波紋が広がるか予想できなかった」という批判もある。韓国をあまりにも知らなすぎたということだ』と韓国「中央日報」が報じたという。

これでは、ここまで韓国を怒らせてしまったのは韓国を知らな過ぎる日本に責任ありということになる。それなら逆に、韓国は日本をどれだけ理解しているのかを問いたい。日本から見れば、韓国は日本の言い分をまともにキャッチしない。問題の本筋から逸れた身勝手な主張を繰り返す。そして今回のように思いがけない日本の措置に逢えば驚き慌てる。窮地に追い込まれて米国に助けを求める。その点では米国に対する理解もお粗末だと言わざるを得ない。常識的に考えれば米国が日韓どちらの肩を持つわけにもいかないことは自明の理だろう。

米国の本心は、「価値観の共有や、兵たん能力の高さ、地政学的に見て、アジアに日本以外の有力なパートナーはいない」(7月某日 読売新聞 葛西啓之・JR東海名誉会長)ということだろう。そのうえで日米韓のトリオを維持するのが米国の基本的な構えだ。だから米国としては、両国で解決に努力してくれと言うしかない。間違っても韓国の肩を持つことはない。

日本は、8月中の韓国輸出優遇のホワイト国外しを決定した。韓国は報復措置を取るという。輸入制限をしても国際世論に訴えても、先に世界貿易機関WTO)の一般理事会で冷たくあしらわれたように、改めてWTOに提訴しても、韓国の思い通りにことは進まないだろう。

先に、河野太郎外相が、外務省に呼んだ南官杓(ナム・グァンピョ)韓国大使の言動を「無礼だ」と叱責した。今度は、文韓国大統領が日本に対して「盗人猛々しい」と発言した。発言者のレベルにおいても、品位のレベルにおいても、双方の発言の重大性は比較にならない。

そこまで国家の品位を傷つけられても、そんな韓国を知っている日本は怒らない。安倍首相の似顔絵にペンキを塗って荒れる韓国民のように、日本の国民は怒らない。日本は、慰安婦問題でも徴用工問題でも正当な歴史的経緯を主張し、現下の輸出規制でも本旨を淡々と主張することに徹している。こういう日本の姿勢を韓国は理解しようとしない。韓国は今の日本を知らな過ぎではないか。(2019・8・4 山崎義雄)

ババン時評 厄介者?「日本的雇用慣行」

 

いきなり「日本的雇用慣行」を取り上げて、問題ありと指摘したのは今年の「経済財政白書だ。どんな優れた制度にも、長所だけではなく短所がある。もちろん、戦後の日本企業に深く根付いてきた「日本的雇用慣行」にも、良い面もあれば悪い面もあった。

だからこそ産業界や企業は、終身雇用制度や年功序列の昇格や賃金制度なども、工夫・改善を重ねながらその制度を維持してきた。したがって、日本的経営や雇用慣行の問題は、今に始まった問題でもなければ論議でもない。なによりも「日本的雇用慣行」は「日本的経営」の根幹であり、その特性・長所を簡単に否定することはできない。

その「日本的雇用慣行」を、年次の経済財政事情を分析すべき白書が、大真面目で論じるのも不可解だが、それにもまして驚かされるのは、そうした旧来の日本的雇用慣行をいまだに守っている企業が多いことを問題視し、否定していることだ。

白書は、今の安倍内閣が発足してからの6年数カ月の間に、景気回復とともに雇用情勢が改善し、人手不足が強まってきたとする。そこで、女性、高齢者、外国人材を含めて、人材の確保が喫緊の課題だと言い、多様な人材を生かす必要性を指摘する。そこでいきなり「日本的雇用慣行」を引き合いに出して、これが、女性や外国人などの活躍を阻害している可能性が高いという。

さらに白書は、日本的雇用慣行は、①企業内のみの訓練や職業経験でキャリアを積んだ従業員は創造的な仕事を苦手とする傾向がある。②年功序列は技術進歩が速くて技能が陳腐化しやすい現在では合理的でない―などと指摘する。

そういうマイナス面がある(かもしれない)という指摘に一理あるとしても、それは単なる日本的雇用慣行への批判でしかない。その指摘がすなわち「女性や高齢者、外国人労働力」の多い企業の方が、「創造性」があり、「技術進歩」が速い、などと言う理由には決してならない。

日本的雇用慣行を悪者にするより、議論するならまともに多様な労働力の活用を論議すべきではないか。近年相次いでいる企業不祥事が、モノづくり精神や企業モラルの劣化に起因するものであり、雇用慣行を含む日本的経営の長所を軽視し劣化させたことと決して無縁ではなかろう。(2019・8・3山崎義雄)