ババン時評 高圧的な「中国肺炎」対応

中国の「新型肺炎」対応を見ても、習近平政権は相変わらず強気で高姿勢だ。「党の判断は正しく、取った措置も有効だ」と国内外に向けて言明し、国際社会に対して詫びの一言もない。さらに、不穏な国内世論に対しては警察力を投入しインターネット監視の強化などを命ずる一方、国際社会の理解と協力を得る方向での外交工作を指示したという。

これを承けて王毅外相が「中国は最大限厳格な抑制対策をとっている」「我々は世界への(新型肺炎)拡散を効果的に防いでいる」と言い、「世界は中国に対する偏見を棄てよ。世界の大国は一国主義を捨て多国間で協力する義務がある」と国際社会に向けて“訓示”した(ミュンヘン安全保障会議。「NHK」2・16「朝日ディジタル」2・16)。やはり中国の感覚はずれている。世界は今、2002年の中国発「SARS」の時と同様、今回も大変な迷惑と被害を被っているのだ。そして感染の蔓延は収束の気配も見せていない。

歴史上の主な感染症を見ると、最古のペスト(6世紀)から中国発のSARSまで20例近い。その名称をみると発生源の地名を冠したものも少なくない。読売「編集手帳」氏の言を借りれば、「スペイン風邪」は、本当は米国で発生したもので、米兵がスペインに持ち込んだ。また「エボラ出血熱」は、アフリカ中部エボラ川周辺で発生。「ジカ熱」はアフリカ・ウガンダの森「ジカ」で発生したものだ。スペインの場合はとんだ汚名を着せられた感がある。

日本の場合も「日本脳炎」と「日本住血吸虫症」がある。しかし前者の日本脳炎はアジア各地に広く分布する感染症で、1871年に日本が初めて臨床事例を報告し国際社会に認知されて栄誉ある「日本」の冠をいただいたもの。後者も、中国やフィリピンをはじめアジアに広く分布するが、1904年に病原の個体群を日本が最初に医学的・生物学的に明らかにしたもの。「日本人が国外に広げた日本特有の寄生虫という訳ではない」とウィキペディアの説明にある。

今回の新型肺炎は、前回「SARS」の罹患者約1万名、死者1000名を遥かに上回る。前回の国名なしの「SARS」でやり過ごすようなことをやめ、例えば「中国(または武漢)肺炎」とか「中国(または武漢)コロナ症」などと自ら提唱して命名し、真摯な反省と対応の態度を示してもらいたい。(2020・2・16 山崎義雄)

ババン時評 大人による“少年犯罪”?

 

安倍首相は、かねてから考えていた少年法の改正案について、今国会に提出することを諦めたという。改正の狙いは、少年法適用の年齢を現行の20歳未満から18歳未満に引き下げることだったが、その提出を諦めた理由は、例によって、弱い者の味方・正義の味方を気取る公明党に強く反対されたことだという。

少年犯罪の凶悪化が進む。平成における未成年による殺傷事件では、母親を殺害後屍姦しその幼児を殺害した「光市母子殺害事件」(平成11年)、数カ月におよび小学生だけを狙って2人を殺害、3人に重軽傷を負わせた神戸の「酒薔薇聖斗事件」(平成9年)、強盗殺人・殺人・強盗強姦などで初の死刑確定・執行となった「市川一家4人殺人事件」(平成4年)などがある。

さらに遡れば東京・足立区で起きた「女子高生コンクリ詰め殺人事件」(昭和63年)がある。この事件は、複数の少年たちが、真面目な女子高生を誘拐・監禁して輪姦し、激しい暴行を加えて殺害したうえ、遺体をドラム缶に詰めてコンクリートで固めて埋め立て地に遺棄するという残酷な犯行だった。この事件を報道した『週刊文春』が、「野獣に人権はない」というタイトルで取り上げ、マスコミの禁を破って初めて未成年者4人の氏名を公表した。

少年法では、被害者の処罰感情より少年の立ち直りに重点を置く。罪を犯した少年は、基本的に家庭裁判所の所管である。審判の結果により不処分となることもあり、保護観察や自立支援施設入り、そして少年院入りとなる。ただし相当のワルは成人刑法と同じ裁判を受けて、少年刑務所入りとなる。先述のように死刑執行になった例もある。

ところで、2018年に成立した改正民法により、成人年齢は22年4月に18歳となる。18歳で選挙権を持つ大人が、犯罪で少年扱いされるのは法治国家の基本を揺るがすものだろう。成人年齢引き下げに合わせて少年法適用年齢を18歳未満に引き下げるのは当然ではないか。

政府は、諦めずに今秋に予定される臨時国会への提出を目指す構えだという。公明党は反対するだろうが、少年の立ち直りを重視する法の理念は、法の適用に関わる者や健全な世論が関わって生かしていくべきものではないか。なにより、この少年法の改正をやらなければ、「大人による少年犯罪」が発生するというおかしなことになる。(2020・2・8 山崎義雄)

ババン時評 「他山の石」英のEU離脱

英国よどこへ行く。ついに英国は、欧州連合(EU)から離脱した(1月31日)。第2次大戦後に世界の平和維持を願って始まった欧州統合は、これまで確実に参加国の拡大を続けてきたが、ここにいたって主軸の英国が初めて加盟国から離脱するという歴史的な転機を迎えた。

はたして英国のEU離脱は正しい選択だったのだろうか。英国が、4年前に国民投票欧州連合(EU)からの離脱を選択した時にエッセイを書いたことがある。「英のEU離脱と我が国の憲法改正」というテーマだ。内容は、英のEU離脱決定を「他山の石」としてわが国がこれからやろうとしている憲法改正国民投票を考えるべきだというもの。他山の石とは、よその山の粗悪な石でも、自分の宝石を磨くのに使えるということで、この考えは今も変わらない。

当時の論壇では、例えば、英の選択は日独伊の国際連盟脱退で第二次大戦に向かった国際連盟解体時に似ている(仏経済学者ジャック・アタリ氏)とか、英国の選択は100年単位の大きな政治潮流の変化だ(慶応大教授細谷雄一氏)など歴史的に捉える見方も強かった。

最近では、立命館アジア太平洋大学学長の出口治明氏がその著「哲学と宗教全史」で言っている。(大要)20世紀のイングランドと大陸の哲学者は交流し政治哲学論争もやっていて、経済的な面のみならず、思想的な面でも深い交流を続けてきた。このような歴史的な文脈で考えると、ブレクジット(EU離脱問題)はかなり異質な動きである。連合王国はいずれEUに復帰するのではないか、と見る。

英国を“他山の粗石”とする、先のエッセイの結論を変える必要はなさそうだ。すなわち「憲法の何をどう改正すべきか、論点整理もできていない現状で、票欲しさによる既成政党によるプロパガンダによって誤った“先入観”をすり込まれると英国の轍を踏む。政党や護憲論者のプロパガンダに幻惑されない冷静さが必要だ。国会審議という代議制で進められる今後の論議を見守り、冷静に判断しながら、主権者として最終判断を下す国民投票を迎えるべきだろう」-。

ただし問題はこの間、野党の“漂流”が続いていて、野党が“土俵”にのらないために、4年後の今日に至るまで国会でも憲法審査会でも「代議制」の責務が果たされず、国民の参考になる憲法論議がなされていないことである。(2020・2・6 山崎義雄)

ババン時評 人を殺すとはどういう意味か

理不尽でやりきれない事件である。相模原市の「津久井やまゆり園」で、知能障碍者ら45人が殺傷された事件だ。いま行われている裁判員裁判で、被害者の家族らが2月5日、横浜地裁の法廷に立って植松聖被告(30)に質問を行った。質問の真意、本当に聞きたいところは、「なぜだ。なぜ殺した」という悲痛な問いかけだろう。

それで、たまたま観たテレビの人気ドラマ、「相棒」を思い出した(1・31)。古い作品の再放送で「鮎川教授最後の授業」という作品だった。鮎川教授なる人物が、ドラマの終末部分で猟銃を構え、主人公杉下右京(水谷豊)ら10人ほどの人間に向かって言う。正確なセリフは覚えていないが「人を殺すとはどういう意味か。殺してはいけないとはどういう意味か」と迫る。

「人を殺すとはどういう意味か」-。難しい問いかけだ。生きている人間を殺傷することが「人を殺すこと」ではあるが、法理論や哲学のレベルで「殺すことの意味」を考えれば答えは容易ではない。ましてや「殺してはいけない理由」はさらに難しい。人殺しは倫理的に「いけないことだ」ということに説得力のある理屈をつけるのは簡単ではない。

今回の裁判における、被害者家族の質問に対する植松被告の答えでは、知能障碍者を「殺す意味」は、「社会の迷惑だから殺した方が社会のためだ」ということになる。「殺してはいけない意味」、いけない理由は、ない。知的障碍者とは「共生できない」からである。植松被告に必死で問いかけた被害者遺族には、彼の「心が見えなかった」。反省のない被告に「心」を求めるのは空しい。

植松被告の答弁は、良くも悪くもしっかりした答弁である。弁護士の常套手段である心神耗弱など精神的な問題を理由にした減刑作戦など考えられないほど正気な?答弁である。罪を裁くに当たっては「故意」か「過失」かが大きな判断基準になるが、植松被告の殺人は明らかに故意による犯行だ。差別的主張を変えることのない確信犯だ。

未来はAI裁判官が現れて、故意か過失かさえも気にせずに、植松被告のような“難物”もドライに裁くかもしれない。それも恐いが今はまだ人間が人間を裁く“人間裁判”の時代だ。犯行の意図を明らかにし、被害者の声も聴き、過失か故意かを判定し、犯行の態様を見極めて、植松被告にも精一杯の量刑を課してもらうという“人間くさい裁判”に期待するしかない。(2020・2・5 山崎義雄)

ババン時評 なぜ「寅さん」がもてるのか

あっという間に令和2年になった。いつも正月にはいい映画、できればシリアスな洋画を観たいと思っているが、今年はめぼしい作品がなかったので「寅さん」を観た(失礼)。「男はつらいよ50 お帰り寅さん」である。寅さんは嫌いではない。好きだ、というより面白い。

今作はシリーズの50本目、葛飾柴又の実家(元 団子屋)で顔をそろえた皆さんもすっかり歳をとった。もちろん寅さんも、“おいちゃん・おばちゃん”も、裏の印刷所のタコ社長もすでに鬼籍に入っている。今作の主人公は満男(吉岡秀隆)で、今は立派に成長して小説家だ。妻は7年前に亡くなり中学生の一人娘がいる。実家には実年齢を顔に刻んだ満男の母さくら(倍賞千恵子)と父・博(前田吟)が住んでいる。満男の妻の七回忌の折りに集まった彼らが寅さんをめぐる思い出話に花を咲かせる。懐かしの寅さん、惚れて振られた女性たちの有名女優がわんさと出てくる。

見どころは、今は神田のバーのママになっているリリー(浅丘ルリ子)が語る“初耳”の思い出話だ。さくらに聞かれて寅さんと結婚してもいいと答え、さくらがそれを寅さんに伝えた。寅さんが、リリーに、ウソだろ?冗談だよな?とあの顔で戸惑いながら聞き、リリーが冗談よと笑っておしまいになってしまう。もう1つは、満男が高校時代の恋人で今は海外で仕事をしている彼女と再会し、幼かった愛を確かめて羽田の別れ際に抱擁し、余韻を残して別れるラストシーンだ。

寅さんが国民的に好かれる“共通項”は山田洋次監督が仕掛けたワナで、破天荒で、変り者で、自由奔放で、温かくて、優しい人柄だ。それに加えて、四角な顔にあの服装。商いの鞄1つで旅に出るたびにいい女に惚れ、必ず振られる。そのたびに、おいちゃんには「ばかだなー」と嘆かれ、観客も「ばかだなー」と少し軽蔑して笑いながら、気のいい虎さんに哀れを催して感情移入する。

寅さんの性格については、こんなことも言えそうだ。明朗だが気が弱い。根気がない。気まぐれだ。かっこうを付けたがる。根は子供っぽい。ホラ吹きのケがある。勝手な理屈をこねる。聞いた風なことをぬかす。すぐ熱くなる。勝手に思い込む。すぐ落ち込む。すぐ忘れる。根に持たない。お天気屋である。バカ騒ぎが好きだ。人情に弱い。言行不一致だ。風を読めないー。

こうして並べてみると、まるで落語に出てくる長屋の八つぁん熊さんではないか。最も愛される古典的なキャラクターでもあり、典型的な日本人のDNAでもありそうだ。そして、こういう素朴な日本人が少なくなって世の中がギスギスしてきた今の時代が、郷愁の寅さんを歓迎するのではないだろうか。(2020・2・4 山崎義雄)

ババン時評 誰も憲法の内容など知らぬ?

テレビ(1・18)を漫然と眺めていたら、歴史ものの番組で、昭和22年の大日本帝国憲法が発布された日の国民的な祝いの模様が紹介されていた。電飾や奉祝門や提灯行列などの祝賀模様が劇画タッチの画像でも見られた。

当時この情景を実際に見たお雇い外国人でドイツ人のベルツ博士の感想は、「日本の庶民は憲法公布でお祭り騒ぎをやっているが、だれも憲法の内容など知らぬのだ」と言うもの。西洋化の憲法制定を単純に喜ぶ日本人の陽気さを複雑な思いで見たのかもしれない。

この帝国憲法は、一度の改正もなされずに約半世紀を経て戦後の昭和22年に現行の日本国憲法となり、さらに70数年を経て今、安倍首相が改正に意欲を燃やしている。自民党はこの1月から、憲法改正の実現に向けてポスター、ホームページ、公開講座で本格的なPR作戦を展開する。

初のポスターのキャッチフレーズは、「憲法改正の主役は、あなたです」というもの。国民の反応はどうだろうか。真面目にポスターを見た人の中には、エ、俺が?、私が?、憲法改正の主役?と戸惑う人も少なくないのではないか。多くの国民にとって憲法理解はたやすいものではない。ベルツ博士が生きていたならまた「誰も憲法の内容など知らぬのだ」と言われかねない現状がある。

ホームページでは特に若い人を中心に憲法改正の趣旨を分かりやすく伝えて、改正ムードを盛り上げたいというが、趣旨説明やムード作りでは、肝心の条文解釈と判断のレベルには踏み込めない。安倍首相や自民党の目指す改正ポイントは4つあるが、本命は第9条の改正だ。

第9条の改正の狙いは、自衛隊の存在理由を明記したいというところにある。理由は、憲法違反の継子扱いでは自衛隊員がかわいそうだから、と言うもの。しかし今、自衛隊の存在を否定的に見る国民や、自衛隊員をかわいそうだと思う国民はまずいないだろう。

安全保障上の対応は15年成立の安保関連法で強化されている。憲法9条改正による安全保障上の“実利”は何もない。安倍首相の任期中に憲法改正を急ぐ必要もない。国民の憲法判断が肝心の条文解釈と判断のレベルに進むまで、憲法改正の実現に向けての中身のあるPR作戦を地道に進めるべきではないか。(2020・1・19 山崎義雄)

ババン時評 借金を拒み続けた勝海舟

日本が借金大国であることは世界中が知っている。しかしそんなものは何の問題もないというのがMMT理論(現代金融理論)で、一言で言えば、足りなければ紙幣を刷って使えばいいという安直な経済・金融理論だ。しかし書店にはまだ類書が並んでいる。論議も賛否両論が蒸し返されている。

昨年の5月に、この「ババン時評」で「国はドンドンお金を刷って使え」というテーマで実はMMT批判を書いた。ここでは、MMT論者の1人で、先ごろ来日した豪ニューカッスル大のビル・ミッチェル教授のインタビュー記事(日本経済新聞 L1・12・25)に少し触れたい。

ミッチェル教授は、MMTは無節操な財政赤字を容認しているわけではなく、インフレが発生しているような状況ではMMTを容認できないと言う。その上で、日本はインフレの兆しすらないのだから、MMTによって財政支出を伸ばす余地が大いにあると言うのだ。

そしてミッチェル教授は、国の債務の大きさ(日本の債務は国内総生産GDP)の2倍)だけを見るのではなく、国の政策が国民にとって重要なものを提供しているかどうかが問題だとする。たとえば雇用では、日本の失業率は極めて低い。国が市民の面倒を見ているということだ、と言う。さらに、MMTの観点では、公的債務は非政府部門の富とも言えるとする。

同教授の言い分には疑問がある。①国の債務が増えても、国が(国の施策が)市民(国民)の面倒を見ているのだから問題ない、という点である。問題は国が面倒を見ているのは「今の人」であり、国の借金を払うのは「未来の人」であるということだ。②公的債務は非政府部門の富である、という点も問題である。言い換えれば、国の借金は民間が国に貸している富(国民の債権)だということだが、この理屈、国民の多くが素直に肯定できるだろうか。

ここで、勝海舟先生にコメントを願おう。「幕府の内輪は傾いてくる。官軍は攻めてくる。さあその用意をしなければならない」(中略)「これが一家や一個人のことなら、どうなってもたいしたことはないが、なにしろ一国のことだから、もし一歩誤れば、何千万人といふものが、子々孫々までも大変なことになってしまうのだ。それでおれが局に立って居る間は、手の届く限りは借金政略を拒み通した」(勝海舟「氷川清話」講談社学術文庫)。幕末・維新のときの話だが、いまに生きる卓見ではないか。(2020・1・15 山崎義雄)