ババン時評 土光さんが泣く東芝の身売り

日本産業界の名門・東芝が、英資本による買収提案を受けて揺れている。東芝は日本を代表する電機メーカーとして、戦後の日本経済を牽引した。初期の経団連では2代石坂泰三、4代土光敏夫と2人の会長を輩出した。今回の買収劇で真っ先に頭をよぎったのは土光敏夫さんのことだ。

土光さんは、昭和40年、経営難に陥った東京芝浦電気東芝)の再建を依頼されて社長に就任し、わずか1年ほどで経営の立て直しを成功させた。後年は「土光臨調」で国の行政改革の先頭に立ち、三公社(国鉄、専売公社、電電公社)の民営化などを進めた。「ミスター合理化」の異名をとりながら、合理化の「常套手段」である「首切り」だけはしなかった。

土光さんには「怒号さん」の異名もあるが、叱咤激励することはあっても決して人を批判しなかったという。だから今回の英投資フアンドCVCによる東芝買収提案を受けて、突然、社長辞任した車谷暢昭氏を批判しなかったにしても、ご存命であれば叱咤激励しただろう。

三井住友銀行副頭取だった車谷さんは2018年、東芝再建のために乗り込んだ。だが、今回の買収劇には痛くもないハラ?を探られる不透明さがあった。つまり車谷氏はかつて、買収提案側の英投資ファンドCVCの日本法人の会長を務めていた。当然、社内外から買収提案に至った経緯への透明性を疑問視する声が上がった。右の手にあるものを左の手に持ち替えるような安易な発想は、いかにもカネ勘定の銀行屋さん的で、エンジニア土光さんの重厚さとは水と油である。

CVCの重要な提案に株式の「非公開化」がある。つまり、株式の非公開化でうるさい「物言う株主」を排除し、経営の「自由度」を上げようという提案である。しかしこれは目先の小難を避けたいという狭い了見だ。企業は社員のもの、株主のものであり、公のものだ。

車谷氏の下で作ったであろう新しい「東芝グループ理念体系」の中で、「私たちの価値観」を4つ挙げている。すなわち「誠実であり続ける」「変革への情熱を抱く」「未来を思い描く」「ともに生み出す」。この4項目、それぞれの頭に「身売りをして」と付け加えて読んでみるといい。誠実も変革も未来も形無しだ。これでは泉下の土光さんも怒るより泣いてしまうだろう。

由緒ある企業をハゲタカの餌に提供すべきではない。資本の論理ではなく企業の倫理を順守すべきであり、東芝は身売りすべきではない。新経営陣は間違いのない決断を下してもらいたい。国としては、外為法違反で外資フアンドの東芝買収計画を拒否すべきだ。つまり、原発廃炉技術、量子暗号通信技術など、東芝の多くの事業に安全保障上の懸念があり認可できないと結論を出すべきだ。(2021・4・20 山崎義雄)

ババン時評 「改憲」遥か、門前論議

また野党、というより立憲民主党国民投票法を巡って逃げの姿勢だ。こんなことでは、二度と野党に政権が回ってくることはないだろう。4月15日、衆院で、憲法改正の是非を国民に問う「国民投票法」改正案の審議が始まった。しかし、ハナから立憲民主党立民と共産党は、法案の早期成立に反対した。しかも自民党立憲民主党は、昨年暮れに、改正案について今国会で「何らかの結論を得る」ことで、合意していたにもかかわらず、である。

立民の「言い訳」は、「何らかの結論を得る」とは、改正案だけを採決するという意味ではない。国民投票に向けた運動中のCM規制を含めた十分な議論を尽くすべきだ、というもの。そもそも「何らかの結論を得る」とした合意の前提には「十分な議論を尽くした」という共通の認識があったはずだ。かりに十分な論議とはいえないまでも、「何らかの結論を得る」時期だとの共通認識があったというべきだろう。その前提・認識を平気で覆すような公党では国民の支持を得られるわけがない。

しかも国民投票法改正案の中身が情けない。国民投票の際、市中の商業施設に共通投票場を設けるかどうか―、国民投票運動中のCM規制をどうするか―。こんな論議を長々とやっているのである。改憲論議に比べたら情けないレベルの些末な手続き論議ではないか。これで、自民、公明、日本維新などが7項目にわたる改正案を衆院に提出した2018年から計8国会にわたって継続審議となっているのだ。

簡単に言えば、今や憲法審は、野党の抵抗で非効率極まりない状況になっている。共産党の反対姿勢は当然?だが、改憲反対分子を抱える立民は常に挙動不審になる。肝心の憲法改正論議もいつのことやらだが、その前段の、国民投票法改正案の審議は、安倍前首相や歴代保守政権が目指した憲法改正という「本丸」とはだいぶ距離のある「門前」のささいな揉め事だ。

安倍前首相は安保関連法の制定という大きな成果を残した。それにより集団的自衛権の行使が可能になった。政権終盤では、弾道ミサイルの攻撃阻止のための、敵ミサイル基地に対する攻撃能力保持の検討にまで着手したが結果は出せなかった。これは現政権への宿題ではないか。合わせて急ぐべきは尖閣防衛の具体策などだ。

こういう緊迫した内外状況の下で、のんびりと国民投票法改正案の審議をやっているのである。立民も了見を改めなければ、先細りするだけだろう。こういう体たらくだから今や保革両立の2大政党論議など誰もしなくなった。速やかに門前の揉め事?を片づけるべきだ。(2021・4・16 山崎義雄)

ババン時評 日米協調に水を差す日本?

米のバイデン政権は、予想に反して?意欲的に対中包囲網の構築を進めている。ブリンケン米国務長官は、中国による新疆ウイグル自治区における人権侵害について、「集団殺害(ジェノサイド)」ありとまで明言した。中国包囲網に欧州も同調し、米国、欧州連合EU)、英国、カナダが、中国・新協ウイグル自治区中国当局者への制裁を決めた。

ところが日本政府は、この中国による人権侵害に対して判断を留保し、対中制裁に慎重な姿勢を示していると報じられる。茂木外相は「それぞれの国がとり得る策は違う。何が有効かはそれぞれが考えながら、(中国に)働きかけをしていくことが重要だ」と言い、外務省幹部は、わが国は「ジェノサイド条約」に加盟していないとか、「人権弾圧の事実を確認できていない」などと言い訳をしている。これでは米国の事実確認を信じないというに等しいではないか。

問題の新疆ジェノサイドの事実確認はトランプ前政権の時からなされているとも言われ、半ば公然の事実だとさえ言われる。民間研究者の調査でも、国家統計の『中国統計年鑑』に、うっかり?載せたらしいデータに、新疆の人口が漸増する中でトルコ系の少数民族の人口だけが激減しており、「職業訓練施設」に収監されて帰ってこない人数の多さとの関係が注目されるなどの疑問があるといわれる。おそらくバイデン政権は確証のあるジェノサイド事実をつかんでいるのではないか。

ピーター・ナヴァロ著『米中もし戦わば 戦争の地政学』(赤根洋子訳 文芸春秋)は、日本の取るべき道の選択を検討した上で、『残るは「ぶれない同盟国」シナリオだが、これがマシかどうかは、日米の軍事同盟強化に中国がどう反応するかにかかっている。中国は探りを入れ、弱点を見つければ前進してくる。進んでみて相手が強いと見れば撤退する。カギは、米国のアジアに対する熱意と決意である』と言っている。

その米国の「熱意と決意」に、最強コンビであるはずの日本が水を差しているのだ。要するに日本は、欧州諸国も協調する中で、米国が人権重視外交で鋭く踏み出した新疆ウイグル・ジェノサイド糾弾に対して、しかも「ジェノサイド条約」に加盟しながらジェノサイドを繰り返している鉄面皮の中国に対して、何の力もない弱気な理屈で二の足を踏む反応を示しているのだ。

中国は今回の思いがけない?日本の反応を、日米連携に「スキあり」と捉えて自信を強めるだろう。「弱点を見つければ前進してくる」中国がこれを外交戦略に活かさないはずがない。日本は中国にジェノサイドありとした米国の判断とその根拠を信じて、改めて新疆ジェノサイド糾弾を是とし、日米同盟の揺るぎない姿勢を中国と世界に示すべきではないか。(2021・4・9 山崎義雄)

ババン時評 日中韓の宗教的距離感

日中韓はそれぞれいくつかの異なる宗教を持っている。中国は、共産主義独裁国家にもかかわらず仏教、道教など古来の5宗教を「公認」している。韓国には、仏教、儒教などがある。日本には仏教、神道などがある。日本人は無宗教だと言われることがあるが、それは既成の宗派に属さないということで、日本人の精神的な土壌は、素朴で自然な宗教心が強く信心深い。

たまたま、菩提寺よりご恵送いただいた「臨済会」発行の『法光』(春彼岸号)を読んだ。その巻頭に「自ら調え、安寧を祈る」と題する円覚寺派管長 横田南嶺師の論稿がある。中で「怨親平等のこと」が述べられている。「怨親平等(おんしんびょうどう)」とは、『華厳経』などに説かれている言葉で、味方だけではなく敵も同様に供養する考え方だという。

例として、室町時代の「上杉禅秀の乱」(1416年。前関東管領 上杉氏憲=禅秀が鎌倉公方 足利持氏に対して起こした反乱)における多くの戦没者を敵味方の区別なく供養し「敵御方(みかた)供養塔」を建てた遊行寺藤沢市)の太空上人の例や、今、横田師が預かっておられる円覚寺が、元寇(げんこう。モンゴル帝国の日本侵攻、1274年・文永の役、1281年・弘安の役)の殉死者を敵味方なく供養しており、開山の無学祖元禅師が「怨親平等ならんことを」と言われたという。

怨親平等」の実践ということになると次元が高すぎるが、一般人の場合の倫理観としては、ひとに恨みをもたない、敵を作らない、ひとを許すということではないだろうか。「怨親平等」の仏心が日中韓の精神的な土壌の基盤にあれば、日中、日韓の揉め事の大半は解決すると思われるが、今の日中韓にはその精神的な共通基盤はなさそうだ。目下の中国では、新疆ウイグル自治区少数民族弾圧で、ジェノサイド(大量殺戮)の疑いさえ強まっている。

さて、これは実に次元の低い連想だが、「怨親平等」の思想が仏教本来の教えだとすれば、敵をつくり、徹底的にせん滅し、墓を暴いて骸を引き出しても恨みを晴らす、などと言われる中国・韓国の歴史・風習を思うにつけても、インドから中国、韓国を通って日本に渡ってきた仏教が、中国・韓国で大事な思想の配分を忘れ、日本まで持ってきてしまったのではないだろうか。

もちろん横田師の論考は日中韓を意識して書かれたものではないが、その結びで、「敵味方を分けてものを見る自分中心的な見方では、間違った認識をしてしまいます」と言われる。さらに、「怨親平等の仏心に目覚め、お互いの幸せを祈る気持ちを持ち続けることが、人間として究極ではないかと考えている次第です」と結んでおられる。(2021・4・6 山崎義雄)

ババン時評 「米の属国日本」の気概を

バイデン米大統領は、先ごろ、就任65日目に開かれた初の記者会見で、中国についてこう言及した。「中国の目的は世界を主導し、世界で最も豊かで強力な国になることだが、私の任期中にそれは起こらない。なぜなら米国は成長し続けるからだ」-。多分これは、大方が認める真っ当な予見だろう。ただし、「私の任期中に」の一言は、(それを言いたかったのだろうが)失礼ながら余計な一言ではないか。4年間で中国が世界で最も豊かで強力な国になるのはムリだろう。

尊大・傲慢・無礼な中国は、先ごろの日米2プラス2会談で中国の人権問題などを話し合ったことにハラを立て、日本を「米国の属国だ」とコキ下ろした。日米豪印の連携強化にも「対中包囲網だ」と反発している。なぜ包囲されるかを反省せず、威圧を加えて連携を分断しようと画策する。

今、中国は、インドとの国境周辺では衝突を繰り返し、中国コロナに注文を付けたとして豪州に一方的な報復関税を課し、沖縄・尖閣では海警船が領海侵入を繰り返し、「自国の領海で法執行活動を行うのは正当であり、合法だ。引き続き常態化していく」と公言している。あきれた強弁で、あたまの「自国の領海」が間違っているのだから後の理屈は成り立たない。

さてこの中国はどこまで増長・肥大する気なのか。今後15年間で米国に対抗できる軍事力を持ち、武力で台湾を統一するとまで言っている。台湾進攻に踏み切った時に、米軍が手を出せないところまで軍事力を強化する。それが中国における軍事強化の最大の狙いだ。全力を傾注して「戦争の準備をしよう」と中国は公言している。

たまたまフランスの歴史学者エマニエル・トッド氏は、戦争は避けるべきで、対中経済制裁だけで中国の力を削げると提言する。そして「14億に迫る人口大国の中国は、並外れた超大国に変容するのか。私はそうは思わない。中国人の出生率は低下し続け、高齢化は加速し、中国人は裕福になる前に老いてしまう」と見る。そして、「中国の輸出に依存する経済は危うい。中国に科学技術ブームは訪れない。世界の科学技術二大国は米国と日本だ」と断言する。(『自由の限界』中公新書)。

今こそ「米国の属国だ」とナメられた日本の気概を中国に示すべきだろう。思いがけなく?明快で厳しい対中姿勢を明らかにしたバイデン政権に呼応して、日米連携強化のために応分の働きをしなくてはなるまい。米の態度表明を歓迎するだけでなく、日本としても重要な同盟国として安保協力推進の決意を示す具体的な対策を提示すべきだろう。(2021・4・3  山崎義雄)

ババン時評 たかり根性と負け犬根性

経済とは経世済民、世のため人のために国が行う根幹的な政策だ。したがって、新型コロナによる飲食業やサービス業などの経営難と、失業などによる国民の生活苦を救うための財政支出は、まさに国による喫緊の経済政策だ。ところがi今、ワル知恵を働かせた「持続化給付金」などを不正受給するという、許しがたい「コロナ犯罪」が続発している。

要するに、真に救いの手を差し伸べなければならない経営者や生活者の中に、そういう許しがたい奴らが紛れ込んでいるのだ。極端な場合は事業をやってもいないのに策を弄して持続化給付金を申請するとか、帳簿をごまかして“コロナ被害者”になりすます者や、もらえるものならもらいたいと心に魔が差す人間まで混在する。

そうした“不心得症候群”に陥る人間の性根に、「たかり根性」と「負け犬根性」がある。本来の「たかり」は、「ゆすりたかり」という言葉もあるように他人の金品をゆすり取るとか食事をおごらせるなどの意味だが、今は、ゆするとかおごらせるという姿勢で強く出るより、単にずるくうまく、時には卑屈な態度で金品や食事などにありつくという意味合いで使われる。

そういうズルい根性が「たかり根性」で、他人ならぬ国家に向けてその根性を発揮した時に給付金などの不正受給になる。一方、「負け犬」は、けんかに負けて、尻尾を巻いて逃げる犬のことだが、転じて、競争や争いに負けてすごすごと引き下がる人間のことを指す。今は後者の意味で使われ、そういう情けない根性が「負け犬根性」だ。

根性というからには「習い性となる」わけで、「負け犬根性」も負けグセがついていつしか本来の性格のようになってしまうのだ。そしてこの「負け犬根性」はもっぱら内に籠るから、当然、意図的な「たくらみ」をもって不正受給など考えることもない。しかし、この人たちが生活困窮者となれば、真っ先に国が救いの手を差し伸べなければならない対象者となる。

さて問題は、今、コロナ対策で際限もなく国が助成金や支援金を支出しているが、その結果が国や公に頼る“不心得症候群”を増やす恐れがあるのではないかということだ。要するに、国がくれるというならそれをもらわなければ損だという思い違いや、国や公の援助を受けることが当たり前だという心得違いやそれを許す世の中の風潮が強まる恐れがあるのではないかということだ。

それを防ぐための対策・処方箋は簡単ではないが、そこに国の将来にとって看過できない大きな問題があることだけは確かだ。最初に、コロナ対策は経済政策だと言ったが、“不心得症候群”は経済の根幹をむしばみ国の根幹を危うくする。国の富を増やし国民の暮らしを豊かにするという経済の目指すところとは真逆の効果を生むことになる。(2021・4・1 山崎義雄)

ババン時評 自衛権に準じた尖閣防衛を

先にババン時評『のんき過ぎる「危害射撃」』を書いた。そこで引いた小説「邦人奪回」における官房長官の「奪回作戦」の狙いは、毛並みは良いが決断力と統率力に欠けて支持率の低下した総理の政権浮上と、政敵大臣の追い落としにあった。作戦は隊員の犠牲者を出したが邦人奪還には成功した。

総理は、作戦終了時の記者会見を、官房長官の指示通りの挨拶で野党の「暴走政権批判」を乗り切った後、軍犠牲者の各部隊葬に出席しながら気力を失って行き、ついに総理の座を官房長官に譲ることになる。似たような総理や官房長官は、現実の政治世界に生きている。

小説の自衛隊佐官2人のように、上役に疎まれて飛ばされる例も組織の常、人の世の常である。小説の筆者は、おそらく似たような体験をして自衛隊を中途退役したのではないかと思われるが、優柔不断の政治家や私利私欲の政治家、制服の中身はそんな政治家と同類の軍人、その下で最先端に立つ実力幹部。外交も軍事も、尖閣防衛もそんな人間模様の虚実の中で進められる。

現実の尖閣問題では、中国の海警船はすでに「第二海軍」である。さらに「海上民兵」までいる。敵の「軍事行動」にわが国の「警察行動」では太刀打ちできないのは明らかだ。中国海警船は海自の主砲並みの大型機関砲を搭載したものまであるという。海保巡視船の小型機関砲を使うレベルでの「危害攻撃」では、「無力」どころか自ら命の危険を招く「無謀」である。

日本は、中国の尖閣を巡る行動がエスカレートして海保の手に負えなくなれば自衛隊の出動を要請する。しかし自衛隊が現場に駆けつけても、まずは、活動の範囲は海上警備行動、治安出動という国内法の範囲内に限られる。「危害射撃」が可能だとしても警察行動の範囲であり、はっきりと武力行使を公言する中国海警法の武力行使とは大違いである。

しかも自衛隊尖閣諸島周辺に常駐しているわけではない。中国の海警船が尖閣に接近・上陸を試みたり実行したりすれば、遅れて駆け付けた自衛隊は「危害射撃」で中国“軍”を追い落とすことは不可能だ。日本が“事変”の前に「危害射撃」の構えを見せるならば、相手の横暴を抑止する多少の効果はあろうが、武力で島を占拠した後の敵を追い落とす力はない。

要するに、現実の問題として考えれば「危害射撃」の実行は容易でない。他国の仕掛ける緊急事態に対して、国内法に準拠して対応するのは現実的でない。となれば、「武力」を用いた敵の領海侵犯や島への上陸という緊急事態に対処するためには、自衛隊本来の自衛権に準じた尖閣防衛を可能にする法解釈なり法整備を行うしかないのではないか。(2021・3・27 山崎義雄)