ババン時評 崩壊する?「言葉の共有」

言葉の意味は、変わらないものでも変わってはいけないものでもないとは思うが、一過性の流行語的に簡単に変わっていいものではないだろう。新語・造語はたいてい若者層から始まるものだが、このほど発表された2022年度の文化庁による「国語に関する世論調査」結果をみると、後期高齢者の当方としては今どきの言葉の新解釈に少なからず驚かざるを得ない。

調査に見る「引く」「盛る」「寒い」「推し」「詰んだ」の新しい表現では、「引く」は「異様だと感じてあきれる」こと、「盛る」は「より良く見せようとする」こと、「寒い」は「冗談などがつまらない」こと、「推し」は「気に入って応援している人や物」のこと、「詰んだ」は「どうしようもなくなった」ことだという。言われてみればそんな意味合いもなくはないようにも思えるが、やはりこれらの“新解釈”は少々行き過ぎにみえてこちらも「引く」思いがする。

こうした表現が「気にならない」人と「使うことがある人」の割合をみると、高率の「引く」では多くの人が新解釈を「気にならない」としており(83.4%)、「使うことがある人」も多い(70.0%)。次いで高率なのが「推し」「盛る」で8割以上の人が「気にならない」としている。低い方の「詰んだ」でも6割強の人が「気にならない」としている。これらの“新解釈”は一過性の流行語で終わるのだろうか。あるいはちょっと考えにくいのだが国語辞典に収録されるほどに生き延びる可能性はあるのだろうか。

さらに「慣用句」では、「涼しい顔をする」で、本来の意味である「関係があるのに知らんぷりをする」と理解している人が少なく(22.9%)、異なる理解の「大変な状況でも平気な顔をする」ことだと思っている人が多い(61.0%)。「雨模様」でも本来の意味「雨が降りそうな様子」との理解(37.1%)より、異なる理解の「小雨が降ったりやんだりしている様子」のほうが多い(49.4%)。「忸怩たる思い」でも本来の「恥じ入るような思い」(33.5%)より、異なる理解の「残念で、もどかしい思い」のほうが多く(52.6%)、すべて「本来の意味」より「異なる理解」を是とする人が多いのは驚きである。

また調査では、言葉の使い方に「気を使っている」とする回答が80.1%となっており、これは1997年の調査開始以来最高の数字だという。一見、言葉を大事にする喜ぶべき傾向にも見えるが、「気を使う」のは「差別や嫌がらせ(ハラスメント)と受け取られかねない発言をしない」(62.7%)、「インターネットで感情的な発言・反応をしない」(37.1%)などの理由からであり、正しい言葉を使いたいという積極的な日本語重視より、自己防衛的な姿勢で言葉遣いに「気を使う」ということらしいのは残念である。

ともあれ世の中はますます底の浅いSNSツィッターなどの短文発信社会になり、文章作成も大幅にAI(人工知能)に頼るようになる。小学生から作文をAIに頼るようでは日本語の先行きが思いやられる。義務教育における真っ当な国語教育の再構築はデジタル教育や英語教育にまさる喫緊の課題ではないか。このままでは日本語が崩れていくばかりであり、国民の語彙が少なくなり、豊かな表現力やコミュニケーション能力が低下していくばかりではないか。(2023・10・18 山崎義雄)

ババン時評 歴史の「たら・れば」検証を

歴史には「ああだったら」「こうすれば」という「たら・れば」話は通用しないという。しかし「たら・れば」は歴史の反省にも教訓にもなる。もし米英がロシア(旧ソ連)と中国(共産党政権)を国連安保理常任理事国に招じ入れていなかったら、国連はいまのような機能不全には陥らなかっただろう。もし北方四島ソ連に割譲せず米国が占領していたら、沖縄より早く返還されていただろう。もし朝鮮半島を分断独立させていなかったら、朝鮮戦争も起こらず、現下の北朝鮮による核の脅威に近隣国がさらされることはなかっただろう。

ロシア(旧ソ連)は、終戦間際のどさくさ紛れに日ソ中立条約を一方的に破棄して参戦した。すでにドイツが降伏した後であり、後顧の憂いなくスターリンの野望は極東に向けられた。そして日本の権益のあった満州から朝鮮半島樺太(サハリン)、千島列島へと一方的な侵略を続け、終戦の8月15日をはるかに超えた9月5日に至って北方四島を占拠した。まさに火事場泥棒ではないか。ソ連の対日参戦を求めたのは米ルーズベルト大統領であり英チャーチル首相が同意した。終戦間近のヤルタ会談スターリンに日本侵攻を求め、見返りに日本の極東権益の大幅割譲を約束した。なぜ原爆投下直前ですでに“死に体”だった日本への侵攻をそそのかしたのか理解に苦しむばかりである。

また中国も日本に勝ったというが、日本は中国に負けた覚えはない。日中戦争蒋介石率いる国民党軍主体の中国と戦ったものである。もちろん戦前の日本の画策による国共合作の名残で共産党軍も国民党軍の片棒を担いでいた。ともあれ日本は中国に負けたわけではなく実際はアメリカに負けた結果、国民党中国が勝利を揚言するに至ったものである。そしてその後の内戦で国民党政権に勝利して樹立した毛沢東共産党政権まで日本に勝ったと強弁するに至ったものである。

さらに蒋介石の国民党による「中華民国」は、大戦後の1945年に設立された国連常任理事国5か国の一角を占めた。だが1949年の国共内戦共産党軍に敗れて台湾に逃れ、国民党政権による「中華民国」を継承した。だが1971年に至って台湾の「中華民国」に代わって中国本土の共産党による「中華人民共和国」が正当な中国政府として国連常任理事国を継承することが認められた。それは、中ソの対立やベトナム戦争を背景とした米国の思惑によるもので、時のニクソン米大統領の“誤算”が共産党中国の国連常任理事国を誕生させたものである。

「たら・れば」で検証すれば際立つのはルーズベルト米大統領チャーチル英首相、そしてニクソン米大統領の意外なアホさ加減である。そこから学ぶべきことは偉大に見える政治家の愚考・愚行で歴史が変わるということである。そして偉大ならぬ脅威のロシア・プーチンの凶行や中国・習近平の台湾・尖閣盗りの野望にどう正対すべきかということである。今こそ学者も政治家もジャーナリズムも国民も、それぞれにそれなりに露中北戦略の「たら・れば」を真剣に考えなければならない時だろう。(2023・10・11 山崎義雄)

ババン時評 有名無実化する敬老の日

何年か前に当欄で「敬老の日の“うそ寒さ”」について書いたことがある。9月18日、敬老の日が巡ってくるたびにその思いを強くするのは見当違いだろうか。俗に人生体験や知恵に学ぶべきだという意味で「亀の甲より年の功」というが、はたして今どきそういう認識で老人に接する若者がどれだけるのだろうか。逆に邪魔者扱いされ社会の荷厄介者扱いされることが少なくないのではないか、などと考えるのは。単なる老人のひがみだろうか。

祝われる「老人」とは、老人福祉法では65歳以上となっているが、高年齢者雇用安定法では70歳までの就業機会の確保を企業の努力義務としており、実践している企業も増えているという。むかし「♪今年60のおじいさん」という童謡があったが、たしかに今どきは65歳でも老人と呼ぶのは当たらない。そしてすでに65歳以上の人口は総人口の約3割、75歳以上も2000万人超となった。

ということで、敬老の日のお祝いも70代になってからが多いという。それもけっこうだが、いったいお祝いをしてもらったりプレゼントをもらったりしている幸せな(一見そうみえる)老人がどれだけいるのだろうか。金持ち老人や名のある老人なら敬愛されたり儀礼的にも祝ってもらえることが多いと思われるが、金も名もない当方は『類は友を呼ぶ』せいか周囲に成人の日を祝ってもらった知人がほとんどいない。敬老の日のうそ寒さを感じざるを得ない。

社会の現実を見れば、敬老の日のお祝いどころか、引きこもり状態の子供を親が年金で養っている例が増えており、加えて親の介護のために仕事をやめて、結局は親の年金頼りで親子が暮らすケースが増えているという。典型的には80代の親の介護を50代の子が看るケースが多いというので「8050問題」などとも言われる。これでは親も子も悲惨だ。最悪の場合は孤立死や無理心中、そして親の死後に子が親の年金の不正受給を続けるなどの事件も起きている。

こうなると、老人の経験や知恵を若者世代に伝授するどころではない。スマホもパソコンも使いきれずSNSなど無縁の高齢者が大半の現実なのだから、高齢者の雇用機会を増やそうなどという国の政策もなかなか効果が上がらず、ますます老人の出番が少ない時代になっていきそうだ。人生100歳時代の高齢者はどう生きればいいのだろうか。まずは身も蓋もない話になるが、すでに有名無実化した敬老の日のお祝いなど当てにしない生き方を目指すべきだろう。

具体的な願いとしては、自力で外出ができ、買い物ができ、最小限の煮炊きができ、お役所からきた書類の処理ができ、何人かの友人・知人を持ち、目や耳や脳や足腰の衰えを防ぐ趣味を持ち、若者に人生体験や知恵を授けようなどという思い上がった欲を持たず、金持ち老人や名のある老人として敬愛されたり儀礼的にお祝いされるような形骸化の進む敬老の日を無視して、なるべく自立・自尊で生きたいものである。(2023・9・28 山崎義雄)

 

 

ババン時評 恐るべし後藤新平の先見性

まずは私事だが、かれこれ20年近くもむかし、畏友K氏に30数枚の関東大震災の写真をあずかった。なんでもアマチュア写真家が撮ったり集めたりしたものだということだった。関東大震災100年を機に預け先を検討し、先ごろ公益財団法人東京都慰霊協会に納めさせていただいた。

その中に、オリジナルなものではないようだが、時の皇太子で摂政の宮殿下、後の昭和天皇が被災地を視察される上の写真があった。写真の左側に立つのが皇太子殿下、ほぼ中央でステッキを持つ人物が震災後の首都復興を担うことになる後藤新平である。

後藤は、なんと『震災の2 年前に有能な実務経験者並びに学者を集めて「都市計画研究会」や「東京市政調査会」を立ち上げ、「8 億円計画」といわれる都市整備計画を立案していた』(東京大学廣井悠教授2022・6論考)。それによって7年の超スピードで首都復興を成し遂げることができた。

後藤は、帝都復興院総裁兼内務大臣として帝都の復興に当たり、木造平屋の密集する江戸的な東京を、主要道路の拡幅や、鉄筋コンクリートの公的建物が並び、上下水道やガスなどのインフラが整備され、随所に被災地としての緑地・公園を持つ近代都市に生まれ変わらせた。それでも後藤が考えた復興プランの実現には予算の制約などの理由による一部政治家の反対などで目標には遠く及ばず、環状大動脈の道路網建設を断念し、震災で消失を免れた木造平屋建て地区を残存させるなどの結果に終わった。

後藤が100年前に構想した環状大動脈の道路網や現状をはるかに超える緑地帯の確保などが実現していたら、今の首都圏の過密ぶりは大幅に解消されただろう。今後、近い将来に予想される首都直下地震南海トラフ巨大地震に襲われたら、復興計画でまた後藤の名が思い出され、その先見性は時代と共に輝きを増すことになるだろう。(2023・9・17 山崎義雄)

ババン時評 韓国の汚染水発言も汚染発言

中国も韓国も困ったお隣りさんである。先に「ババン時評 中国の汚染水発言は汚染発言」だとして、中国の言い分こそ不純で有害な“汚染発言”だと書いた。「不純」だという意味は政治的意図で科学的根拠を無視し、処理水問題を外交カードに使おうとしたことである。この点は韓国も全く同断だ。ただし韓国の場合の“汚染源”は北朝鮮であることが少しずつ明らかになっているようだ。

また韓国とひとくくりで言っては日本との関係修復に苦慮している尹錫悦大統領に失礼になろう。反日“汚染発言”流布は韓国の最大野党「共に民主党」などで、同党の李在明代表は、国際原子力機構(IAEA)が安全のお墨付きを出した日本の処理水を“汚染水”と呼ぶ。そしてその海洋放出は「最悪の環境破壊」だとして「国民安全非常事態」を宣言した。さらに同党のパク・クァンウン院内代表なる人物は、韓国国民の「85%が反対する汚染水海洋投棄」で「(日本は)歴史的に後悔することになるだろう」と揚言した。

問題の“汚染源”だが、韓国の『朝鮮日報』日本語版は、「事あるごとに北朝鮮が指令を下して韓国で忠実に実行されていたなんて」(9・6社説)と驚いている。また福島原発汚染水”の海洋放出を巡っては、北朝鮮が韓国国内の一部勢力や地下組織などに対し「反対闘争を持続的に行え」という緊急の指令を下していたと韓国の情報機関である国家情報院が明らかにした。北朝鮮日本大使館や光化門広場周辺などデモを行う場所も具体的に指示していたという。

そして何かが起これば北朝鮮が指令を下し、それが韓国社会でそのまま実行に移されるパターンが繰り返されているという。つまり(韓国内の)一部の左翼団体が名称を次々と変えながら、狂牛病デモ、済州海軍基地反対デモ、セウォル号集会、在韓米軍のTHAAD(高高度防衛ミサイル)反対運動などの先頭に立ってきた。その背後に北朝鮮があったのではと疑わざるを得ないというのだ。また必要な軍資金も北から流れているという。韓国の有力マスコミがそう言っているのであるから信ぴょう性があろう。

要するに韓国社会は北朝鮮という“病原菌”にむしばまれているのである。まずは北の「持続的に行え」とする指令通り「福島汚染水放出反対汎(はん)国民大会」は数波に及んだ。第1回大会(8・26)では共に民主党・李在明代表を始め野党各党と共に7000人の参加者が路上に座り込んで投棄反対のスローガンを叫んだ。まずは参加者の中心を占める若者や“進歩的大学生”らに、北の脅威とその後ろにいる中国の危険に目覚めてもらいたい。

日本の処理水排出計画における含有トリチウム濃度に比べて中国の場合は約6・5倍と見られていたが、実際に日本が排出を始めてみたら中国の約10分の1となった。それを中国は長年にわたって海洋放出をしているのである。また韓国の月城原発は、福島原発災害前の数値で約15倍のトリチュウムを海洋に放出しているという。だとすれば既に韓国の海はいいかげん汚染されているはずだ。先の共に民主党パク・クァンウン氏は、「日本は歴史的に後悔することになるだろう」と予言したが、ここは自らの足元を見直して中韓両国の汚染水排出で韓国沿岸の魚介類が食えない状態になっていないかどうか検証してみた方がいい。(2023・9・7 山崎義雄)

ババン時評 中国の汚染水発言こそ汚染発言

東電福島原発の処理水放出について、中国では政府から国民まで国を挙げての反対運動と嫌がらせが続いている。日本の処理水は「核汚染水」であり、海洋放出すべきではないとする中国当局の主張に踊らされて、SNS上ではまったく科学的根拠を無視した言い分やニセ動画が拡散し、日本のいろいろな施設への投石などいやがらせ実力行使で目に余るニュースが続いている。こうした理不尽な動きは日中関係の悪化を招くだけで、冷静に考えれば中国にとって何の益もない所業だと思うが、習近平政権の政治的意図は何なのか、理解に苦しむばかりある。

中国は日本における処理水放出日(8月24日)の決定に強く反発した。中国外務省は記者会見で「公然と核汚染のリスクを全世界に転嫁するものだ」と述べた上で「海洋環境と食品安全、人々の健康を守るため必要なあらゆる措置を取る」と表明したという。この言葉は中国にそっくりお返ししなければならないだろう。中国原発の処理水は、東電の年間処理水の海洋放出予定量に比べ約6・5倍の放射線トリチュウムを含んでいるといわれる。

東電福島原発事故から10数年、処理水の処分方法で議論が続いたのは、処理水に含まれるトリチウムが人体や海洋環境などに及ぼす被害が心配されたためだ。しかし、このほどトリチュウム濃度は問題のないレベルに減少しているというIAEA(国際原子力機構)の調査結果が出てようやく処理水の海洋排水開始が決定した。それまでの東電による科学的な検証や改善努力、そして海産物への影響、風評被害対策など日本側の努力は隠すところなく公表されてきた。そして実際の海洋排出時のトリチュウム濃度は中国のそれの約10分の1にとどまっている。

しかし中国は依然として東電の処理水を「核汚染水」と呼んでいる。IAEA報告の出る数カ月前には、中国外相がIAEAの事務局長と会談し、日ごろの国際ルール無視をタナに挙げて「IAEAの権威で国際社会の安全を守ってもらいたい」と申し入れている。そしていざ己に都合の悪いIAEA報告が出ればこれを完全無視する。「IAEAの権威」も自己都合でどうにでも使い分ける。こんな中国相手では科学的な事実に基づいて冷静に話し合うことなどできようはずもない。

このまま中国による一方的な嫌がらせが続くならば、いかに紳士的な日本といえども国内における対中感情の悪化は免れない。習政権の許しが出て中国の団体観光客が大挙して来日するという珍奇・不可解な現象と裏腹に日中両国民の間に摩擦が生じ、両国関係を悪化させる恐れが強い。その責任はどう見ても一方的に中国側にある。

まさに中国の言い分こそ不純で有害な“汚染発言”である。そしてその中国には正当な理屈が通用しない。東電の処理水の完了には30年ほどかかるという。日本としては、処理水の安全性について科学的・客観的なデータに基づいて世界に向けて情報発信を続け、国際社会の理解を深めることによって中国政府と国民に反省を求める以外に手の打ちようがないのではないか。(2023・9・1 山崎義雄)

ババン時評 この世とあの世の境を覗けば

俗に、諦めの悪いことなどを「往生際が悪い」などと言うが、仏教が教える「往生際」とは正しい信仰心をもって死に臨むことであり、また閉口すること、困り果てることを「往生する」というが、仏教が教える「往生」とは極楽浄土に往って仏に生まれ変わること、であるという。ただし往生際を超えた先に「あの世」があり極楽浄土があるかどうか私のごとき凡俗の徒は知らない。知らないが、仮にあの世など無いと思ってもムキになって無いことを主張するより、あると思えるならそのほうがさらに精神世界がグンと広がることは確かだろう。

そんなあの世があると仮定して、あの世の入り口を覗く疑似体験を「臨死体験」とか「幽体離脱」などという。古今東西にわたるそれらの研究から『ウイキペディア』は、あの世を覗く臨死などの体験を10パターンに編集している。この⑩パターンを自分流に分かりやすく少し“再編集”させてもらうと、①死の宣告が聞こえる、②心の安らぎと静けさを覚える、③耳障りな音が聞こえる、④暗いトンネルを通る、⑤物理的な肉体との離脱を知覚する、⑥死んだ親族や知人に出会う、⑦神や自然光に包まれる、⑧過去の人生が走馬灯のように見える、⑨現世と死後との境目を見る、⑩蘇生を知覚する、などの体験をするという。

私事で言えば前にも書いたが上記の②と⑦を併せた体験をしたことがある。花畑に寝ていて②と⑦を感じていたが、いきなり③の耳障りな音プラス振動を身に受けて⑩の蘇生を知覚した。③の不愉快な音と振動は駅のコンコースで乗せられて救急車に運ばれるストレッチャーの小さな車輪が伝えるものだった。花畑の気持ちよさを破って、ストレッチャーの小さな車輪が伝える意外に大きな音とガタガタと骨に響く振動が忘れられない。

ちなみに⑤の「幽体離脱」は意識や霊魂が肉体から離れて行く現象であり、その霊魂の存在を証明するために米国の医師がその計量に取り組んだ話はよく知られている。1907年、アメリカのダンカン・マクドゥーガル医師は、死を迎える患者のベッドに計量器を取り付けて、命の尽きる前後の体重計量を繰り返した結果から魂の重さは21グラムと算出した。この研究が『ニューヨークタイムズ』に発表されるや、医学界にとどまらず一般市民まで巻き込んで賛否両論が沸き起こったという。

あれこれと書いてはみても、立派な往生際を迎える自信も覚悟も足りない凡俗の徒としては、「往生際」を迎えてどんな悪あがきをするかも分からない。願わくは、往生際には、不測の事故などで突然命を奪われるようなこともなく一言いう時間に恵まれたら「ありがとう」と言って死にたい。家族に、友人・知人に、この世に感謝して死にたいと思う。

そして人様の死を見送る場合も、恩義にあずかった人の場合はもとより、生前に相当の迷惑を被った人の場合でも「ありがとう」「ご苦労様」といって見送りたいと思う。被った迷惑も苦労も束の間の人生の味わいであり彩(いろどり)であり、これも人生の恵みであるとさえ思うからだ。今どきの表現で“終活”を迎える歳になるといよいよその思いが強くなるようだ。(2023・8・25 山崎義雄)