ババン時評 有名無実化する敬老の日

何年か前に当欄で「敬老の日の“うそ寒さ”」について書いたことがある。9月18日、敬老の日が巡ってくるたびにその思いを強くするのは見当違いだろうか。俗に人生体験や知恵に学ぶべきだという意味で「亀の甲より年の功」というが、はたして今どきそういう認識で老人に接する若者がどれだけるのだろうか。逆に邪魔者扱いされ社会の荷厄介者扱いされることが少なくないのではないか、などと考えるのは。単なる老人のひがみだろうか。

祝われる「老人」とは、老人福祉法では65歳以上となっているが、高年齢者雇用安定法では70歳までの就業機会の確保を企業の努力義務としており、実践している企業も増えているという。むかし「♪今年60のおじいさん」という童謡があったが、たしかに今どきは65歳でも老人と呼ぶのは当たらない。そしてすでに65歳以上の人口は総人口の約3割、75歳以上も2000万人超となった。

ということで、敬老の日のお祝いも70代になってからが多いという。それもけっこうだが、いったいお祝いをしてもらったりプレゼントをもらったりしている幸せな(一見そうみえる)老人がどれだけいるのだろうか。金持ち老人や名のある老人なら敬愛されたり儀礼的にも祝ってもらえることが多いと思われるが、金も名もない当方は『類は友を呼ぶ』せいか周囲に成人の日を祝ってもらった知人がほとんどいない。敬老の日のうそ寒さを感じざるを得ない。

社会の現実を見れば、敬老の日のお祝いどころか、引きこもり状態の子供を親が年金で養っている例が増えており、加えて親の介護のために仕事をやめて、結局は親の年金頼りで親子が暮らすケースが増えているという。典型的には80代の親の介護を50代の子が看るケースが多いというので「8050問題」などとも言われる。これでは親も子も悲惨だ。最悪の場合は孤立死や無理心中、そして親の死後に子が親の年金の不正受給を続けるなどの事件も起きている。

こうなると、老人の経験や知恵を若者世代に伝授するどころではない。スマホもパソコンも使いきれずSNSなど無縁の高齢者が大半の現実なのだから、高齢者の雇用機会を増やそうなどという国の政策もなかなか効果が上がらず、ますます老人の出番が少ない時代になっていきそうだ。人生100歳時代の高齢者はどう生きればいいのだろうか。まずは身も蓋もない話になるが、すでに有名無実化した敬老の日のお祝いなど当てにしない生き方を目指すべきだろう。

具体的な願いとしては、自力で外出ができ、買い物ができ、最小限の煮炊きができ、お役所からきた書類の処理ができ、何人かの友人・知人を持ち、目や耳や脳や足腰の衰えを防ぐ趣味を持ち、若者に人生体験や知恵を授けようなどという思い上がった欲を持たず、金持ち老人や名のある老人として敬愛されたり儀礼的にお祝いされるような形骸化の進む敬老の日を無視して、なるべく自立・自尊で生きたいものである。(2023・9・28 山崎義雄)