ババン時評 現代という「痩せた畑」

 

ヒマをもてあますはずの後期高齢者になっても、あっという間に年の瀬を迎える。平成時代最後となる今年を振り返ると、金銭欲の権化、日産ゴーン氏をはじめ企業不祥事の続発、政官界の疑惑など、国の指導層の“劣化現象”が目を覆うばかりだった。

こんな年の瀬に思い出すのは、言葉の魔術師などと言われた作詞家の阿久悠が残した言葉である。阿久が亡くなって11年ほどにもなろうか。彼が残した著作「清らかな厭世」にこんな言葉がある。現代の若者について言っているのだが、「痩せた畑に蒔かれた種子、成長の栄養もなく、結実の精気もなく、ヒョロリとした茎と萎びた葉が風にそよいでいる」ようだと表現する。

しかし阿久はそんな若者を憂いているのではない。「痩せた畑」を憂いているのであり、畑の栄養分になっていたはずの(昔の)「大人たちが英知と生への実感で作り出した言葉」が失われた現代を憂いているのである。著者は少年時代を振り返って、「ぼくらが少年の頃は、父や先生や名もなき職人達からボソッと語られるそれら(の教え)を命綱のように掴んで大人になろうとしたものである―」と言う。

同時に阿久は、「若者はほっといても若者だが大人は努力なしでは大人になれない」とも言う。残念だが、そんな大人がいなくなった。心構えを持たずに大人になった人々が企業不祥事を起こし、社会のリーダーたちがカネまみれになりウソをつく。

阿久は、「痩せた畠」、「痩せた大人社会」に警鐘を鳴らし、ひいては大人社会と子供社会の断裂に警鐘を鳴らしているのである。警世家阿久悠の「ラストメッセージ」を思い出す平成最後の年の瀬である。(2018・12・16 山崎義雄)