ババン時評 誹謗中傷も表現の自由か

誹謗中傷はいつの時代にもあったが、インターネット時代の誹謗中傷は「匿名」という新しい“隠れ蓑”を着て行うところが問題だ。ようやくお上も重い腰を上げた。総務省がその対策の検討に取り組み素案作りを急ぐという。いわれなき誹謗中傷がいよいよ目に余る状況になったというわけだ。

昔から人の陰口を言うのは世の常である。だが昔は、「天に向かってツバを吐く」とか「人を呪わば穴二つ」などという教えを誰でも知っていた。“天ツバ”をやれば己の顔にツバが降りかかる、人をハメる穴を用意することは、同時に自分がハマる穴を用意することでもあるという戒めだ。しかしこういう戒めは現代のネット社会では通用しない。

自分は匿名という穴の中に身を隠して、ネット空間でツバを吐き散らし、人を死に追いやることもある穴を掘る。しかもそれを無責任な不特定多数で“共謀”する。昔も「村八分」という、村全体で特定個人やその一家を“絶交処分”にする制裁もあった。やり過ぎる問題もあったが、制裁にはそれなりの理由があった。しかしネット社会における悪質な誹謗中傷では誰も顔を見せず理由は理不尽だ。

この匿名による誹謗中傷が大問題であることは誰も否定しないはずだが、その対策や制度づくりが問題になると途端に、“打てば響く”ように、匿名による意見発表の行き過ぎた制限は、「表現の自由」を損なう恐れがあるという論議が起きる。学者や識者と言われる人たちがそれを声高に論じる。

たしかに「表現の自由」は幅広い。上は憲法レベル(21条「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由」)から下は「勝手なことをほざく」低俗レベルまで、表現の自由論議は尽きないが、しかし今は低俗レベルの誹謗中傷問題である。いわれなき誹謗中傷で個人の尊厳や権利が侵害され、時には生命まで脅かされることがあってはならないということは、誰も否定できないだろう。

要するに、個人を痛めつける低俗レベルの誹謗中傷が「表現の自由」であろうはずがない。情報の把握、発信者の特定、情報開示の方法などについて早急に検討すべきだ。この問題に関しては「表現の自由」など「理念」レベルの論議はやめて、誹謗中傷を防止する「方法・制度」作りの技術論に徹すべきだろう。(2020・7・9 山崎義雄)