ババン時評 いきなり「観光復活」?

官房長官が「コロナ問題は東京問題だ」と言ったことに反発したのか、小池都知事は、国の打ち出した観光支援の「Go To 政策」はアクセルとブレーキを一緒に踏むようなものだと批判した。コロナを防止するブレーキと観光事業支援のアクセルを同時に踏むようなものだというわけだ。

しかし、言い出した菅官房長官もコロナ問題が東京だけの問題だなどと言っているわけではない。マスコミが面白がって?煽っているようにコロナ問題は国の責任か東京都の責任かなどと二項対立的に考えるべき問題ではない。両者には共同の責任もあれば分担すべき責任もある。

問題は「Go To 政策」そのものにあった。心ある論者は早くから「Go To 政策」に対する問題点・疑問点を指摘していたのだが、政府は方針決定を急いだ。それに対する是非の論議は遅きに失した感を否めないが、東京を仲間外れにして「Go To 政策」スタートする段階にきてようやく「Go To 政策」論議が盛り上がっている。

前にも書いたが、世界の主流であるコロナ対策は、程度の差こそあれ罰則付きの外出禁止など国民主権の制限を伴うものだ。それに比べて日本のコロナ対策は具体的な「対策」がないまま「三密」防止を掲げて、国民にひたすら「理解」と「協力」を求めてきた。個人監視も私権制限もない“無策の策”である。頼るべきは日本国民の善良な資質である。

その日本でなぜ政府はにわかに「Go To 政策」を決定し、観光復活のキャンペーンを始めたのか、大いに疑問がある。第一、強権的で日本らしくない。大げさに言えば地方自治の軽視や私権の制限につながる国家主義的・全体主義的な決定だと言える。

根本的な疑問は、個人行動の把握も検査体制も不十分な上にコロナ第2波は確実とされる状況下で経済再開を決めたのはなぜかということである。さらには最も三密の懸念される観光旅行を経済再開の目玉政策として打ち出したのはなぜかという疑問である。政府の「分科会」で専門家のコンセンサスを得たというが、専門家の意見の前に政治家の定見、政治の姿勢が問われるのではないか。(2020・7・18 山崎義雄)