ババン時評 極楽・地獄はこの世にある

お盆の季節だが、お盆の時期や行事は地方により、地域により、家庭により実にまちまちに行われる。大雑把にいうと関東や都市部では7月盆、関西や地方では8月盆が多いという。地方や都市でも庭のある家では迎え火・送り火を焚いて身内の死者の魂を送り迎えするが、その習いも庭を省略する住環境の広がりとともにすたれてきているのではないか。

菩提寺より禅宗円覚寺派発行の小冊子『円覚』(令和5年うらぼん号)をご恵送いただいた。巻頭に横田南嶺管長のお話「敬うもののある暮らし―儀式の大切さ―」が載っている。師は幼少の頃、人は死んでどこへ行くのかと疑問を持ち、十歳のころ座禅に参加し、指導を受けた和尚や老師を尊敬しながら座禅してきた半生を語り、儀式の大切さを語っている。

ところでお釈迦様は、あの世や極楽・地獄について何も語らず、この世をしっかり生きればいいのだと教えている。はたして本当に極楽・地獄はあるのだろうか。あの世にあるかどうか分からないが、この世にあることは確かではないか。

この世の極楽は、ゆったりと湯に浸って「極楽、極楽」と言うたぐいの極楽から、思いもかけず「うまい汁」を吸うとか「僥倖」に恵まれるという場合や、許し難き極楽には酒色におぼれる極楽もあろう。だが本当のこの世の極楽は、「穏やかに生きる幸せ」ではないだろうか。一方の地獄は、僧・源信が寛和元年(985年)の昔に著わした『往生要集』が教えた修羅(憎しみ、嫉妬、暴力)、畜生(獣、非情)、餓鬼(飢餓、欲望)の世界がある。こうしたこの世の極楽や地獄は、人間すなわち「人との間」「人である間」に巡り合う束の間の現象である。

冒頭に引用した横田南嶺管長のお話では、森信三先生の言葉、「尊敬する人が無くなった時、その人の進歩は止まる。尊敬する対象が、年とともにはっきりして来るようでなければ、真の大成は期し難い」と言う言葉も引いておられる。

凡俗の耳には痛いところもあるが、たしかに横田老師の教えるとおりだろう。この世をどう生きるかは人それぞれだが、歳と共に受けた恩義のありがたさが鮮明になり人の偉さが見えてくるようでなければ慢心したあげくに高転びに転ぶことにもなろう。

ともあれ、いい歳になってから心の葛藤・懊悩だけは抱えたくない。穏やかに生きて、競合や葛藤は「人である間」のどこかで捨て去らなければならない。競合や葛藤を捨てきれず、望みも成就できなければ地獄を生きることになるだろう。(2023・7・23 山崎義雄)